アメリアの死
春の気配がわずかに漂い始めた頃吹きさらしの納屋に本当の冬が訪れた。
アメリアの身体が急速に衰弱していった。
底冷えする納屋の環境に加え、配給されるわずかな黒パンや薄いスープのほとんどを、育ち盛りのエレナへと譲り続けていたからだった。
「先生、私の分も食べて。このままでは先生が倒れちゃう」
差し出された木皿をアメリアはかすかに首を振って押し戻す。
「馬鹿を言うんじゃないお前はこれから身体を作り魔力を練り上げなきゃいけないんだ。年寄りの胃袋にはこの湯だけで十分さ」
気丈に笑おうとする唇は紫色に乾き切っている。
エレナは薬草を煎じ、体内の魔力を送って命を繋ぎ止めようとした。
飢えと長年の酷使で擦り切れた命は指の隙間からこぼれ落ちていく。
アメリアが完全に床から起き上がれなくなったのは嵐の夜だった。
熱に浮かされ浅い呼吸を繰り返すアメリアを温めるために、エレナは藁の奥深く乾いた布を探そうと手を伸ばす。
指先が床板の不自然な軋みに触れた。
持ち上げると床の奥に、油布で厳重に包まれた古びた革表紙の帳面が隠されていた。
アメリアの震える筆跡で綴られた日記だった。
エレナは固唾を呑み、微かな光を指先に灯しページをめくっていく。
そこに書かれていたのは胸をえぐられるような残酷な真実だった。
アメリアの本当の名は、レティシアと言い隣国の名門貴族の令嬢だった。
類まれな魔法の才に恵まれていた彼女はある日、国境付近で何者かにさらわれ、人買いの手を経て異国のフェルデンツ伯爵邸に使用人として売り飛ばされた。
誇りも身分も奪われ、過酷な使役に耐えていた彼女の美しさにに目をつけたのが、当主ロバートだった。
逃げ場のない地下牢の中で手を付けられた孕まされた命。
それがエレナだった。
当時、正妻であるエリザベスは病弱で子宝に恵まれず、伯爵家の後継者争いに焦っていた。
ロバートとエリザベスは相談の上、生まれたばかりのエレナをレティシアの腕から強引に奪い取った。
高貴な伯爵令嬢という虚飾の噂を流し、跡継ぎが生まれるまでの代用品として。
実の母であるレティシアは、声を上げることも許されず口封じのように最下層の吹きさらしの納屋へと追いやられた。
『今日、遠目から私の娘を見た。あの忌々しいロバートに似ず、私と同じ色の銀色の髪と緑の瞳をしている。抱きしめたい。けれど、私が母親だと名乗り出ればあの子は私生児として命を奪われるだろう』
『あの子が四歳になった。エリザベスが懐妊したという。私の娘は、用済みとしてこの掃き溜めの納屋に捨てられてきた。神よ、なんと残酷なことか。だがこの腕にあの子が戻ってきた』
日記の最後の頁は涙で文字がにじんでいた。
エレナの喉から、嗚咽が漏れた。
なぜ、レティシアが冷たい態度を取りながらも夜の底で生きる術をすべて叩き込んでくれたのか。
なぜ、痛々しいほど自分に食事を譲り凍える夜にすすけた上着を黙って着せてくれたのか。
赤ん坊の頃、温かな腕の中で光の玉を見せてくれた人はお母様だったのだ。
「エレナ」
微かな掠れ声に、エレナは日記を抱きしめたままベッドへ駆け寄る。
レティシアの痩せこけた指が虚空を彷徨う。 エレナはその手を両手で強く握りしめた。
「お母様」
レティシアの濁りかけていた瞳が、かつてないほど優しく見開かれた。
瘦せこけた手で、エレナの頬をそっと撫でる。
「気づいたのかい。母親らしいことなんて何一つしてやれなかったのに、ごめんな。私の生家は隣国のヴィクトール侯爵家だよ」
「そんなことない。お母様、逝かないで私を置いていかないで」
大粒の涙がレティシアの枯れ木のような手の甲にポタポタとこぼれ落ちる。
レティシアは弱々しく微笑み首を横に振る。
「泣くんじゃないよ、エレナ。お前は代用品ではない私の誇り高い娘だ」
レティシアの指先が、エレナの胸元をかすかに押した。
「魔法を隠し通しなさい。こんな腐りきった屋敷にお前の魂を渡すんじゃない。生きて自由になるんだ」
最後の息が、静かに納屋の冷気に溶けた。 握りしめていた手の力が、ベッドの上に落ちる。
「お母様」
どれほど呼んでも、返事はなかった。 妖精たちが光を弱め、レティシアの亡骸を包むように舞い降りる。
吹きさらしの納屋に、七歳の少女の慟哭が響きわたる。
夜が明ける頃には、泣き腫らしたエレナの瞳からすべての涙が消え去っていた。
冷え切った母の手を胸の上で組ませ、粗末な布を静かに顔にかけた。
その緑の瞳の奥に宿っているのは幼い子供の光ではない。 母を奪い、自分をもてあそび、虫けらのように捨てたフェルデンツ伯爵家。
「お母様。私絶対に生き抜くわ、すべてを変えて見せるわ」
少女は静かに日記を胸にしまい、暗闇の中で鋭利な魔法を研ぎ直した。




