第六話 いつもの場所
第六話 いつもの場所
季節はゆっくりと移り変わっていた。
庭に植えた小さな花の芽も、少しずつ葉を増やしている。
「レオンさん!」
朝、庭から声を上げる。
「芽が出てます!」
薬草を仕分けていたレオンが顔を上げた。
私の隣まで歩いてくると、小さな芽を見つめて静かに頷く。
「順調だ。」
「本当に咲くんですね……!」
「毎日世話をしていたからな。」
その言葉だけで胸が温かくなる。
この花は、私がこの家に来て初めて植えたもの。
だから少しだけ特別だった。
「大きくなるといいですね。」
「ああ。」
レオンはそう答えながら、花ではなく私を見ていた。
(こんな顔もするようになった。)
最近、彼女はよく笑う。
小さなことで嬉しそうにして。
楽しそうに話して。
その笑顔を見るたび、心の奥が静かに満たされる。
——不思議だ。
研究が上手くいった時とも違う。
万能薬の手掛かりを見つけた時とも違う。
この感覚だけは、どうしても言葉にできなかった。
◇◇◇
昼過ぎ。
二人で薬草畑の手入れをしていると、小さな影が近付いてきた。
「レオン先生!」
振り返ると、以前薬を受け取りに来た男の子だった。
今日は母親と一緒らしい。
「薬、本当に効きました!」
母親が頭を下げる。
「息子の熱もすっかり下がって……。」
「それは良かった。」
レオンはいつも通り淡々と答える。
男の子はレオンを見て少しだけ身構えたあと、私の後ろへ隠れた。
「お姉ちゃん……。」
「どうしたの?」
「先生、こわい……。」
小さな声だった。
聞こえないと思ったのだろう。
でも、私は気付いてしまう。
レオンも、聞こえていたことに。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、彼の表情が曇った。
私はしゃがみ込んで男の子に微笑む。
「先生ね、本当はすごく優しい人なんだよ。」
「ほんと……?」
「うん。」
男の子は半信半疑のままレオンを見る。
レオンは少し考え、
「……飴をやろう。」
ポケットから包み紙を取り出した。
「いるか。」
男の子はびくっと肩を震わせた。
そして。
「い、いらない!」
そう叫んでお母さんの後ろへ逃げてしまった。
「…………。」
沈黙。
私は思わず吹き出しそうになる。
「ご、ごめんなさい……。」
「……慣れている。」
そう答えたレオンだったが、肩がほんの少しだけ落ちていた。
その姿がなんだか可愛く見えてしまう。
◇◇◇
母子を見送ったあと。
二人は薬草畑の脇に腰を下ろして休憩していた。
風が心地いい。
私は薬草茶を一口飲んでから、ぽつりと呟く。
「私は、レオンさんの顔、好きですよ。」
「……。」
カップを持つ手が止まる。
「え?」
「怖いって言われるの、もったいないなって。」
照れくさくて笑う。
「最初はびっくりしましたけど。」
「……。」
「今は安心します。」
まただ。
彼女は何気なく、とんでもないことを言う。
安心する。
その一言だけで。
胸の奥が熱くなる。
自分でも理解できないほど嬉しかった。
「……そうか。」
それしか返せない。
もっと何か言いたい。
なのに言葉が見つからない。
薬草の名前なら何千種類でも覚えている。
論文なら一晩で何冊も読める。
なのに。
彼女と話す時だけは、こんなにも語彙がなくなる。
◇◇◇
その日の夜。
研究室。
レオンは机に向かって本を開いていた。
だが。
三十分経っても一ページも進まない。
目では文字を追っている。
頭の中では。
『今は安心します。』
その言葉ばかりが繰り返されていた。
「……病気か?」
自分の脈を測る。
速い。
熱はない。
疲労でもない。
薬を飲む必要もない。
原因不明。
しばらく考え込んだ末、彼は本棚へ向かった。
恋愛小説や詩集など一冊も置いていない研究室。
代わりに取り出したのは、一冊の分厚い医学書だった。
「精神症状……。」
真剣な顔でページをめくる。
「動悸、集中力の低下、特定人物を考え続ける……。」
そこまで読んで首を傾げた。
「……睡眠不足か。」
完全に見当違いだった。
その頃。
隣の部屋では。
「今日は楽しかったなぁ……。」
何も知らない私は、小さく微笑みながら眠りについていた。
壁一枚隔てた部屋で。
一人の天才薬師が、自分の恋心を病気だと思い込み始めていることなど、知る由もなかった。




