最終話 おかえり
最終話 おかえり
春が深まり、庭の薬草も青々と葉を広げ始めた頃。
診療所には、いつものように穏やかな朝が訪れていた。
朝食を終えたあと、レオンは研究室へ向かおうとして足を止める。
「りつか。」
「はい?」
少しだけ緊張したような声だった。
「今日、少し時間をもらえるだろうか。」
りつかは首をかしげながらも笑顔で頷く。
「もちろんです。」
◇◇◇
午後。
二人は初めて出会った山へ向かっていた。
木漏れ日が揺れる森。
鳥のさえずり。
あの日、りつかが途方に暮れて座り込んでいた場所には、小さな白い花が咲いている。
「懐かしいですね。」
りつかが微笑む。
「最初は、レオンさんのことが少し怖かったです。」
「……そうだったな。」
レオンも苦笑する。
「でも、助けてもらって。」
「一緒に暮らして。」
「気づいたら、この場所が大好きになっていました。」
その言葉を聞きながら、レオンは静かに息を吸った。
◇◇◇
「りつか。」
穏やかな声。
「私は、君に一つだけ伝えたいことがある。」
りつかは真っ直ぐレオンを見る。
レオンは少しだけ目を伏せ、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「君と出会った日。」
「私は、珍しい異世界人を保護しただけだと思っていた。」
少し笑う。
「研究者として興味があった。」
「だから観察していた。」
「けれど、一緒に暮らすうちに、それは変わった。」
春風が二人の間を通り抜ける。
「頑張り屋なところも。」
「優しいところも。」
「誰かのために泣けるところも。」
「全部、大切になった。」
りつかは黙って耳を傾けている。
「君が帰れる可能性を知った時。」
「私は、君を引き止めたかった。」
「でも、それはできなかった。」
「君には、自分の人生を選ぶ権利があるから。」
少しだけ微笑む。
「それでも。」
レオンはまっすぐりつかを見つめた。
「君が、自分の意思でこの世界に残ると決めてくれた時。」
「私は、これ以上ないくらい嬉しかった。」
一歩だけ近づく。
「りつか。」
「私は君を愛しています。」
「これから先も。」
「君の帰る場所でありたい。」
「そして。」
「もし君が望んでくれるなら。」
「君と一緒に、帰る場所を守っていきたい。」
◇◇◇
静かな森。
鳥の声だけが聞こえる。
りつかは目に涙を浮かべながら、小さく笑った。
「私……。」
胸に手を当てる。
「ずっと家族みたいだと思っていました。」
「でも違ったんです。」
「レオンさんが笑っていると嬉しくて。」
「誰かのお嫁さんになるなんて嫌で。」
「帰れるって聞いても、ここを離れたくなくて。」
涙が一筋こぼれる。
「全部。」
少し照れながら笑う。
「レオンさんが好きだからでした。」
レオンの瞳が優しく細められる。
「だから。」
りつかは一歩近づいた。
「これからも。」
「あなたの隣にいさせてください。」
◇◇◇
その瞬間。
「にゃあーー!」
どこからともなくノアが飛び出してきた。
勢いよく二人の間へ飛び込み、レオンの肩を経由して、今度はりつかの腕へ。
二人は顔を見合わせ、同時に笑い出した。
「大事なところだったのにな。」
レオンが珍しく冗談を言う。
「ふふっ。」
「ノアらしいですね。」
まるで、「早く帰ろう」と言っているようだった。
◇◇◇
三人は並んで診療所への道を歩く。
もう「保護した人」と「保護された人」ではない。
支える人と、支えられる人でもない。
互いに支え合う、大切な家族だった。
診療所が見えてくる。
木造の扉。
薬草の香り。
窓から漏れる暖かな光。
りつかは自然に笑みを浮かべた。
「ただいま。」
すると、レオンも穏やかに微笑む。
「おかえり。」
その二つの言葉は、初めて交わした日と同じなのに。
今日だけは、少しだけ意味が違っていた。
ここは、もう仮の居場所ではない。
二人で選び、二人で育てていく故郷。
そして――
どんな世界にも負けない、帰る場所だった。
― 完 ―




