表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
45/48

第四十五話 選べるのなら

第四十五話 選べるのなら


 春の雨が静かに降る午後。


 レオンは研究室で、母の日記と古い文献を何冊も机に広げていた。


「……そういうことか。」


 小さく呟く。


 日記の最後に書かれていた一節。


 今まで意味が分からなかった文章が、古い記録と重なった。


«『世界の扉は、人の意思では開かない。

けれど、ごく稀に、閉じかけた扉がもう一度揺らぐことがある。』»


 その記録には、昔この世界へ迷い込んだ異世界人の中に、元の世界へ戻ったと伝えられる人物がいたことも記されていた。


 確かな方法ではない。


 けれど、「帰れる可能性がある」という事実だった。


◇◇◇


 その日の夕食後。


 レオンは暖炉の火を見つめながら、静かに切り出した。


「りつか。」


「はい?」


「一つ、話しておきたいことがある。」


 真剣な声に、りつかも姿勢を正す。


 レオンは、今日読んだ文献のことを話した。


 異世界への扉。


 そして、ごく稀に元の世界へ戻れたという記録。


 話し終えると、部屋は静まり返った。


◇◇◇


「……帰れるかもしれないんですね。」


 りつかは小さく呟いた。


「ああ。」


「確実ではない。」


「だが、可能性はある。」


 レオンはそこで言葉を切った。


 本当は聞きたくなかった。


 もしりつかが「帰りたい」と言ったら。


 自分は笑って送り出せるだろうか。


 送り出さなければならない。


 そう思う。


 でも心は、まったく違う答えを叫んでいた。


◇◇◇


 りつかはしばらく黙っていた。


 元の世界。


 学校。


 街並み。


 知っている景色。


 思い出そうとしても、不思議なほど輪郭がぼやけている。


 もちろん、忘れたわけではない。


 でも今、真っ先に浮かんだのは。


「……レオンさん。」


「ん?」


「もし、私が帰ることになったら。」


 レオンの胸が小さく痛む。


「ノアは寂しがりますね。」


「……そうだな。」


「アルバートさんも。」


「ああ。」


「村のみんなも。」


 少し笑う。


 そして最後に、小さな声で付け加えた。


「私も。」


 その一言に、レオンは息を止めた。


◇◇◇


「でも。」


 りつかは窓の外を見つめる。


 雨に濡れた庭。


 温室。


 診療所。


 全部が見慣れた景色だった。


「まだ答えは出ません。」


「急がなくていい。」


 レオンは静かに頷く。


「君が決めることだ。」


 その言葉に、りつかはゆっくり微笑んだ。


「はい。」


◇◇◇


 その夜。


 レオンは一人で庭へ出た。


 春の雨が静かに降っている。


「私はずるいな。」


 誰もいない夜に、小さく苦笑する。


 りつかには「君が決めればいい」と言った。


 それが正しい。


 彼女の人生なのだから。


 けれど心の奥では、ただ一つの願いだけが膨らんでいく。


(帰らないでほしい。)


(この家にいてほしい。)


(これから先も、一緒に笑っていてほしい。)


 恋とは、こんなにも身勝手なものなのだろうか。


 それでもレオンは首を横に振る。


「……違う。」


 もしりつかが帰ると決めたなら。


 自分は最後まで送り出そう。


 笑って「おかえり」と言えなくなるとしても。


 彼女が幸せになれるなら、それでいい。


 そう思えるくらいには、愛していた。


◇◇◇


 一方、部屋ではりつかが眠れずにいた。


 ノアを抱き寄せ、静かな天井を見つめる。


 元の世界へ帰れるかもしれない。


 そう聞いても、不思議と胸は躍らなかった。


 代わりに浮かぶのは、いつもの日常だった。


 朝、一緒に朝食を食べること。


 薬草畑へ向かうこと。


 レオンが研究に夢中になること。


 「おかえり」と迎えてもらうこと。


 その毎日が、何より愛おしい。


 りつかは胸に手を当て、小さく目を閉じた。


(私……。)


 まだ答えは口にできない。


 でも心は、少しずつ一つの場所へ向かい始めていた。


 帰る場所は、生まれた世界だけではない。


 母の日記の言葉が、春の雨音とともに優しく胸へ響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ