第四十五話 選べるのなら
第四十五話 選べるのなら
春の雨が静かに降る午後。
レオンは研究室で、母の日記と古い文献を何冊も机に広げていた。
「……そういうことか。」
小さく呟く。
日記の最後に書かれていた一節。
今まで意味が分からなかった文章が、古い記録と重なった。
«『世界の扉は、人の意思では開かない。
けれど、ごく稀に、閉じかけた扉がもう一度揺らぐことがある。』»
その記録には、昔この世界へ迷い込んだ異世界人の中に、元の世界へ戻ったと伝えられる人物がいたことも記されていた。
確かな方法ではない。
けれど、「帰れる可能性がある」という事実だった。
◇◇◇
その日の夕食後。
レオンは暖炉の火を見つめながら、静かに切り出した。
「りつか。」
「はい?」
「一つ、話しておきたいことがある。」
真剣な声に、りつかも姿勢を正す。
レオンは、今日読んだ文献のことを話した。
異世界への扉。
そして、ごく稀に元の世界へ戻れたという記録。
話し終えると、部屋は静まり返った。
◇◇◇
「……帰れるかもしれないんですね。」
りつかは小さく呟いた。
「ああ。」
「確実ではない。」
「だが、可能性はある。」
レオンはそこで言葉を切った。
本当は聞きたくなかった。
もしりつかが「帰りたい」と言ったら。
自分は笑って送り出せるだろうか。
送り出さなければならない。
そう思う。
でも心は、まったく違う答えを叫んでいた。
◇◇◇
りつかはしばらく黙っていた。
元の世界。
学校。
街並み。
知っている景色。
思い出そうとしても、不思議なほど輪郭がぼやけている。
もちろん、忘れたわけではない。
でも今、真っ先に浮かんだのは。
「……レオンさん。」
「ん?」
「もし、私が帰ることになったら。」
レオンの胸が小さく痛む。
「ノアは寂しがりますね。」
「……そうだな。」
「アルバートさんも。」
「ああ。」
「村のみんなも。」
少し笑う。
そして最後に、小さな声で付け加えた。
「私も。」
その一言に、レオンは息を止めた。
◇◇◇
「でも。」
りつかは窓の外を見つめる。
雨に濡れた庭。
温室。
診療所。
全部が見慣れた景色だった。
「まだ答えは出ません。」
「急がなくていい。」
レオンは静かに頷く。
「君が決めることだ。」
その言葉に、りつかはゆっくり微笑んだ。
「はい。」
◇◇◇
その夜。
レオンは一人で庭へ出た。
春の雨が静かに降っている。
「私はずるいな。」
誰もいない夜に、小さく苦笑する。
りつかには「君が決めればいい」と言った。
それが正しい。
彼女の人生なのだから。
けれど心の奥では、ただ一つの願いだけが膨らんでいく。
(帰らないでほしい。)
(この家にいてほしい。)
(これから先も、一緒に笑っていてほしい。)
恋とは、こんなにも身勝手なものなのだろうか。
それでもレオンは首を横に振る。
「……違う。」
もしりつかが帰ると決めたなら。
自分は最後まで送り出そう。
笑って「おかえり」と言えなくなるとしても。
彼女が幸せになれるなら、それでいい。
そう思えるくらいには、愛していた。
◇◇◇
一方、部屋ではりつかが眠れずにいた。
ノアを抱き寄せ、静かな天井を見つめる。
元の世界へ帰れるかもしれない。
そう聞いても、不思議と胸は躍らなかった。
代わりに浮かぶのは、いつもの日常だった。
朝、一緒に朝食を食べること。
薬草畑へ向かうこと。
レオンが研究に夢中になること。
「おかえり」と迎えてもらうこと。
その毎日が、何より愛おしい。
りつかは胸に手を当て、小さく目を閉じた。
(私……。)
まだ答えは口にできない。
でも心は、少しずつ一つの場所へ向かい始めていた。
帰る場所は、生まれた世界だけではない。
母の日記の言葉が、春の雨音とともに優しく胸へ響いていた。




