第四十三話 帰りたい場所
第四十三話 帰りたい場所
母の日記を読んでから、数日が過ぎた。
りつかは診療所の窓を開け、柔らかな春の風を胸いっぱいに吸い込む。
「もう春ですね。」
「ああ。」
温室では、小さな薬草の芽が土から顔を出していた。
レオンはその様子を嬉しそうに眺めている。
「冬を越えられた。」
その穏やかな声に、りつかも自然と笑みを浮かべた。
◇◇◇
午後。
薬草畑で作業をしていると、村の子どもたちが駆け寄ってきた。
「りつかお姉ちゃん!」
「見て見て!」
小さな手には、春一番に咲いた野花が握られている。
「わあ……きれい。」
りつかが受け取ると、子どもたちは嬉しそうに笑った。
「先生にも見せて!」
「うん!」
診療所へ戻ると、子どもたちは最初こそレオンを見て少し身構えた。
けれど、ノアが「にゃあ」と鳴きながらレオンの肩へ飛び乗ると、みんながくすりと笑う。
「先生、今日は怖くないね。」
「いつも怖くないぞ。」
レオンが真面目に返すと、子どもたちは声を上げて笑った。
そのやり取りを見て、りつかも思わず笑ってしまう。
少しずつだけれど、この村にも、レオンの優しさが伝わり始めていた。
◇◇◇
夕方。
診療所へ戻る途中、りつかは足を止めた。
小高い丘からは、村全体が見渡せる。
煙突から立ちのぼる煙。
畑で働く人たち。
遊ぶ子どもたち。
どこからか聞こえてくる夕餉の支度の音。
気づけば、この景色はもう特別なものではなくなっていた。
毎日見ている、当たり前の景色。
それが、胸に温かく広がる。
「りつか。」
後ろからレオンが声をかける。
「どうした。」
「この景色を見ていました。」
りつかは微笑んだ。
「初めてここへ来た日は、何もかも知らなくて、怖かったです。」
「でも今は……。」
少しだけ言葉を探す。
「帰ってきたなって思えるんです。」
レオンはその言葉に静かに目を細めた。
「そうか。」
それ以上は何も言わない。
ただ、その一言がどれほど嬉しかったかは、胸の奥だけにしまった。
◇◇◇
夜。
ノアは暖炉の前で丸くなり、静かな寝息を立てている。
りつかは母の日記をそっと開いた。
最後のページに書かれた言葉をもう一度読む。
«『故郷とは、生まれた場所だけではありません。』»
その文字を指でなぞりながら、小さく呟く。
「私も……。」
気づけば、自然と続きの言葉がこぼれていた。
「この場所が、好き。」
診療所が好き。
薬草畑が好き。
ノアが好き。
村のみんなが好き。
そして――
そこまで考えて、頬が少しだけ熱くなる。
慌てて本を閉じた。
「もう。」
自分で自分に照れてしまう。
けれど、一つだけはっきりしたことがある。
ここはもう、「仮の居場所」ではない。
誰かに与えられた避難場所でもない。
自分自身が大切だと思える場所になっていた。
◇◇◇
一方その頃。
研究室では、レオンが新しい薬液を試験管へ注いでいた。
淡く金色に輝く液体が、ゆっくりと色を変える。
「……成功か。」
今まで何度試しても安定しなかった万能薬の基礎薬液。
その調合が、初めて安定した。
レオンは小さく息を吐き、思わず笑みを浮かべる。
「母上。」
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。
「もう少しです。」
研究も。
そして、自分の人生も。
大切な人と歩む未来へ、少しずつ近づいていた。




