第四十二話 母の日記
第四十二話 母の日記
春の気配が少しずつ近づき始めたある日。
診療所の前に、一台の馬車が止まった。
「レオン様。」
屋敷の使用人が恭しく一礼する。
「旦那様より、お預かりしていたお荷物をお届けに参りました。」
差し出されたのは、小さな木箱だった。
丁寧に磨かれた木箱には、母が好きだった花の模様が彫られている。
添えられた父からの手紙には、短くこう記されていた。
«『蔵を整理していたところ、お前の母の遺品が見つかった。
お前が持つべきものだと思い送る。』»
「父上らしいな。」
レオンは少しだけ笑った。
りつかも隣で微笑む。
◇◇◇
木箱を開くと、中には古い革張りの日記帳が一冊入っていた。
「手帳とは違うんですね。」
「ああ。」
レオンも初めて見るものだった。
「母上が日記を書いていたなんて知らなかった。」
二人は暖炉の前へ腰を下ろし、そっとページを開く。
◇◇◇
最初のページには、薬草の観察記録が並んでいた。
季節ごとの成長。
効能の変化。
手帳と同じような内容だ。
ところが、途中から少しずつ文章が変わっていく。
«『今日は空を見上げていたら、故郷を思い出した。』»
レオンは静かにページをめくる。
«『春になると、桜という花が咲いていた。』»
「桜……?」
りつかが小さく呟く。
「知っているのか?」
「はい。」
りつかは驚いたように頷いた。
「私の世界にもあります。」
レオンは少し不思議そうな顔をした。
この世界には、そんな名前の花は存在しない。
◇◇◇
さらに読み進める。
«『お味噌汁が飲みたい。』»
«『白いご飯の匂いが恋しい。』»
«『家族は元気にしているだろうか。』»
レオンはゆっくりと本を閉じかけ、また開いた。
胸がざわつく。
どれも、この世界にはないものばかりだった。
そして最後の方のページ。
そこには、少し震えた文字で書かれていた。
«『あの日、私は別の世界からこの世界へ来た。』»
部屋が静まり返る。
暖炉の薪が、小さくはぜる音だけが響いた。
◇◇◇
レオンは息を呑みながら続きを読む。
«『最初は毎日泣いていた。』»
«『元の世界へ帰りたいと願っていた。』»
«『でも、あなたのお父さんと出会った。』»
«『レオンが生まれた。』»
«『帰れなくなったのではなく、帰りたい場所が増えたのだと、その時初めて思えた。』»
レオンは言葉を失う。
母は異世界人だった。
だから異世界人の研究に興味を持っていたのではない。
母の中には、ずっと「あの日の自分」が生き続けていたのだ。
◇◇◇
りつかは静かに日記へ手を添えた。
「……私だけじゃ、なかった。」
ぽろりと涙がこぼれる。
「ずっと、私だけが違う世界から来たんだと思っていました。」
「でも、お母様も……。」
レオンはそっと頷く。
「ああ。」
「君は一人じゃない。」
その一言が、りつかの胸へ優しく届く。
今まで胸の奥にあった孤独が、少しだけ溶けていくようだった。
◇◇◇
日記の最後のページには、一枚の栞が挟まっていた。
そこには、手帳と同じ優しい文字で、一文だけ書かれている。
«『故郷とは、生まれた場所だけではありません。』»
«『心から「ただいま」と言える場所も、故郷になるのです。』»
りつかは、その言葉を何度も読み返した。
「ただいま」と言える場所。
この診療所へ帰るたび、レオンが自然に返してくれる「おかえり」。
ノアが駆け寄ってくる足音。
暖炉の火の匂い。
みんなで囲む食卓。
その一つひとつが胸に浮かぶ。
気づけば、自然と笑みがこぼれていた。
◇◇◇
夜。
日記を大切に木箱へ戻したレオンは、静かに窓の外を見上げた。
「母上。」
小さく呟く。
「あなたも、この家を故郷と呼べたのですね。」
その隣では、りつかがノアを抱いて眠っていた。
安心しきった寝顔。
その姿を見つめながら、レオンは穏やかに微笑む。
母が見つけた故郷。
そして今、自分たちが育んでいる故郷。
その温もりは、時を越えて静かにつながっていた。




