第四十一話 知らなかった気持ち
第四十一話 知らなかった気持ち
雪がやみ、柔らかな冬の日差しが差し込む午後。
診療所には患者も少なく、穏やかな時間が流れていた。
「りつかさん。」
薬を受け取りに来たアルバートが、湯飲みを置きながら笑う。
「先生も、もう二十八歳ですからね。」
「そろそろ結婚してもおかしくない年齢ですよ。」
その何気ない一言に、りつかの手が止まった。
「……え?」
「先生は研究一筋だから、本人はあまり気にしていないでしょうけど。」
アルバートは苦笑する。
「昔から縁談の話は何度もあったそうですよ。」
「全部断ってしまったらしいですが。」
「そう……なんですね。」
りつかは小さく笑って答えた。
けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
◇◇◇
その日の夕方。
レオンは温室で薬草の世話をしていた。
りつかは一人、暖炉の前でノアを抱きながらぼんやりしている。
「にゃ?」
ノアが不思議そうに見上げる。
「……ねえ、ノア。」
小さく呟く。
「もし、レオンさんがお嫁さんをもらったら……。」
そこまで言って、言葉が止まる。
想像しただけで胸の奥がきゅっと苦しくなった。
診療所に知らない女性がいて。
「おかえり」と言うのはその人で。
一緒に食事をして。
一緒に笑って。
自分は「お世話になりました」と言って、この家を出ていく。
――そんな未来が頭に浮かんだ。
「……やだ。」
思わず漏れた声に、自分で驚く。
「私……。」
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
◇◇◇
そこへ温室から戻ったレオンが入ってきた。
「どうした?」
優しい声。
いつもの声。
りつかは慌てて首を振る。
「な、何でもありません!」
「そうか。」
レオンはそれ以上聞かなかった。
聞かないでいてくれる優しさが、今日は少しだけありがたかった。
◇◇◇
夕食のあと。
りつかは食器を洗いながら、何度も昼間の話を思い出していた。
「先生も、もう二十八歳ですからね。」
「結婚してもおかしくない。」
その言葉が頭から離れない。
(当たり前だよね。)
レオンは優しくて、頼りになって、頭も良くて。
きっと素敵なお嫁さんが見つかる。
それは、とても自然なこと。
自然なことなのに。
どうして涙が出そうになるんだろう。
◇◇◇
夜。
りつかは寝室の窓から星空を眺めていた。
ふいに扉が軽く叩かれる。
「りつか。」
「はい?」
「明日は少し冷えるらしい。」
レオンが新しい毛布を抱えて立っていた。
「これを使うといい。」
「ありがとうございます。」
毛布を受け取ると、ふわりと干したての陽だまりの匂いがした。
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、りつかは毛布をぎゅっと抱きしめた。
(レオンさんは、いつもこうして私のことを考えてくれる。)
その優しさが嬉しい。
嬉しいからこそ。
(誰かがこの場所に来たら……。)
胸がまた少し苦しくなる。
ノアがベッドへ飛び乗り、りつかの腕に頭を預けた。
「にゃあ。」
まるで「大丈夫だよ」と言うように。
りつかはノアを撫でながら、小さく笑う。
「私、おかしいね。」
まだ、この気持ちの名前は分からない。
けれど確かなことが一つだけあった。
レオンが笑っている未来は見たい。
でも、その隣にいる人が自分ではない未来は、どうしても想像したくなかった。




