第四十話 母の手帳
第四十話 母の手帳
その日の夜。
りつかとノアが眠りについたあとも、レオンは眠れずにいた。
机の上には開いたままの研究書。
けれど、今日も文字は頭に入らない。
思い浮かぶのは、雪道で振り向いたりつかの笑顔だった。
「レオンさん……!」
あの声。
あの、ほっとしたような表情。
思い出すだけで胸が温かくなる。
「……参ったな。」
苦笑が漏れた。
万能薬の研究では、どんなに難しい課題も冷静に考えられる。
それなのに、自分の心だけは思うようにならない。
◇◇◇
レオンは立ち上がり、本棚の奥へ手を伸ばした。
そこには、一冊の古びた手帳がある。
母の形見だった。
何度も読み返した、大切な本。
静かにページをめくる。
薬草の記録。
治療法の考察。
その合間に、ときどき綴られた母自身の言葉。
ふと、一つのページで手が止まった。
«『大切な人とは、帰りたいと思う場所であり、帰ってきてほしいと思う人でもある。』»
以前読んだ時は、その意味がよく分からなかった。
けれど今なら、胸にすとんと落ちてくる。
◇◇◇
レオンは静かに目を閉じる。
診療を終えたあと、自然と玄関へ目が向くこと。
夕方になると、「そろそろ帰ってくる頃だ」と思うこと。
「ただいま」と聞けば安心して、「おかえり」と言うことが当たり前になったこと。
そして。
りつかが誰かと話している姿を見て、胸が苦しくなったこと。
すべてが、一つにつながる。
「……そうか。」
小さく笑う。
「私は。」
そこで少しだけ言葉に詰まり、それから静かに続けた。
「恋をしていたんだ。」
ようやく、自分の気持ちに名前をつける。
否定することも。
誤魔化すことも、もうやめた。
◇◇◇
暖炉の火が静かに揺れる。
レオンは母の手帳をもう一度開く。
その次のページには、こんな一文が残されていた。
«『愛する人を縛ってはいけない。安心して帰ってこられる場所でありなさい。』»
その文字を見つめながら、レオンはゆっくりと息を吐く。
「母上……。」
思わず微笑む。
「あなたは、知っていたのですね。」
自分がいつか、誰かをこんなにも大切に思う日が来ることを。
◇◇◇
その頃。
隣の部屋では、りつかが寝返りを打っていた。
「……レオンさん。」
寝言のように、小さく名前を呼ぶ。
その声は壁越しに聞こえるほどではない。
けれど、まるで心が通じ合っているように。
レオンはふと優しい気配を感じた。
「おやすみ。」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「今日も、ここへ帰ってきてくれてありがとう。」
その一言には、恋人への愛というよりも。
一人の大切な人への、心からの感謝が込められていた。
◇◇◇
母の手帳を閉じる。
表紙をそっと撫でながら、レオンは穏やかに笑う。
恋をした。
だからといって、急いで想いを伝えるつもりはない。
まだ、りつかはこの世界に来て一年も経っていない。
彼女が笑って、安心して暮らせることが一番大切だ。
もし、いつか。
彼女自身が自分の気持ちを見つけたその時に。
初めて、この想いを伝えよう。
そう静かに決めた。
暖炉の火が小さくはぜる。
その音はまるで、遠い昔の母が、
「それでいいのよ。」
と微笑んでくれているようだった。




