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第四話 名前を呼ぶ距離

第四話 名前を呼ぶ距離


 レオンさんの家で暮らし始めて、一週間が過ぎた。


 朝は薬草茶を淹れて。


 庭の花に水をあげて。


 干した薬草を取り込む。


 最初は失敗ばかりだった私も、少しずつできることが増えてきた。


「おはようございます。」


「おはよう。」


 短い挨拶。


 それだけなのに、不思議と心が落ち着く。


 朝食を食べながら、その日の予定を聞くのも日課になっていた。


「今日は町へ行く。」


「町……?」


「ああ。薬を届ける約束がある。」


 町。


 この世界へ来てから初めて聞く言葉だった。


「私も行ってみたいです……。」


 ぽろりと本音が漏れる。


 レオンさんは少しだけ考えるように視線を伏せた。


「……人が多い。」


「はい。」


「疲れるかもしれない。」


 人見知りだということを、もう分かってくれているらしい。


「でも、見てみたいです。」


 そう答えると、彼は静かに頷いた。


「では、一緒に行こう。」


 その一言だけで胸が弾んだ。


◇◇◇


 町へ続く道は、森の中をゆっくり抜けていく。


 鳥のさえずり。


 木漏れ日。


 吹き抜ける風。


 歩いているだけなのに、心が軽くなる。


「疲れていないか。」


 レオンさんが振り返る。


「大丈夫です。」


「そうか。」


 それから少し歩いて。


 今度は私の歩幅に合わせるように、彼の足取りがゆっくりになる。


(……また合わせてくれてる。)


 気付かれないように、そっと笑った。


◇◇◇


 町へ着くと、人の多さに思わず足が止まる。


「すごい……。」


 石畳の道。


 行き交う馬車。


 店先に並ぶ果物や布。


 活気のある声。


 見たことのない景色ばかりだった。


 きょろきょろしている私を見て、レオンさんが一歩前へ出る。


 自然と、人混みから私を隠すような位置だった。


 本人はきっと無意識なのだろう。


「まず薬を届ける。」


「はい。」


 薬屋へ向かう途中。


「レオン先生!」


 道の向こうから女性が手を振ってきた。


「この前のお薬、本当に助かりました!」


「ああ。」


 レオンさんは軽く頷くだけ。


 すると女性は私を見て目を丸くした。


「あら……?」


「助手だ。」


 間髪入れずに答えるレオンさん。


「えっ?」


 私は思わず変な声を出してしまった。


「助手?」


「違うのか。」


「え、えっと……。」


 違う。


 でも違わない。


 薬草のお手伝いはしている。


 どう答えればいいのか分からず戸惑っていると、女性はにっこり笑った。


「先生にもお手伝いさんができたのね!」


 そう言って去っていく。


 私は小さく息を吐いた。


「助手……。」


「嫌だったか。」


 少しだけ不安そうな声。


「い、いえ!」


 慌てて首を振る。


「嬉しかったです。」


 本当だった。


 "居候"ではなく、誰かの役に立てている。


 そんな気がしたから。


 レオンさんはそれを聞くと、ほんの少しだけ口元を緩めた。


◇◇◇


 薬を届け終えた帰り道。


 市場の隅で、一匹の子犬が震えていた。


 首輪はない。


 迷子なのだろうか。


「かわいい……。」


 私はしゃがみ込む。


「おいで。」


 子犬は私を見上げると、とことこと近付いてきた。


 頭を撫でると、気持ちよさそうに尻尾を振る。


 その様子を見て思わず笑みがこぼれる。


「よかったね。」


 ふと隣を見る。


 レオンさんもしゃがんでいた。


「……。」


 子犬と目が合う。


 次の瞬間。


「キャンッ!」


 子犬は飛び上がり、一目散に逃げていった。


「……。」


「……。」


 沈黙。


 私は思わず吹き出しそうになる。


「ふふっ……。」


 慌てて口を押さえる。


「……笑っているな。」


「ご、ごめんなさい……っ。」


「仕方がない。」


 レオンさんは本気で落ち込んでいるようだった。


「昔から動物には好かれない。」


 その横顔が少しだけしょんぼりしていて。


 怖そうな見た目とのギャップが可笑しくて、つい笑ってしまう。


 でも。


「私は怖くないですよ。」


 自然と口から言葉が零れた。


 レオンさんの動きが止まる。


「最初は少しだけ怖かったですけど。」


 正直に笑う。


「今は優しい人だって知ってますから。」


 その言葉を聞いたレオンさんは、珍しく何も返さなかった。


 ただ静かに前を向いて歩き出す。


 耳が、ほんの少しだけ赤くなっていることに、私は気付かなかった。


 その日の日記。


 レオンは研究記録の最後に、いつもなら書かない一文を書き残した。


 ――彼女に「優しい人」と言われた。


 それだけの短い文章だった。


 けれど、その一行だけは、何度も書き直した跡が残っていた。

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