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第三十七話 知らない笑顔

第三十七話 知らない笑顔


 冬のある日。


 朝から診療所には患者が何人も訪れていた。


 レオンが診察をし、りつかは受付やお茶の用意を手伝う。


「ありがとうございました。」


 患者を見送ると、ほっと一息ついた。


「少し休憩にしよう。」


「はい。」


 ちょうどそのときだった。


 玄関の扉が軽く叩かれる。


「こんにちはー!」


 明るい声とともに入ってきたのは、村で雑貨屋を営む青年・エリオットだった。


 レオンとも顔なじみで、人懐っこい性格をしている。


「頼まれていた保存瓶、持ってきましたよ。」


「助かる。」


 レオンが受け取る横で、エリオットはりつかに気づいた。


「あ、りつかさん!」


「こんにちは!」


 にこっと笑う。


 りつかも笑顔で頭を下げた。


「こんにちは、エリオットさん。」


「この前教えてもらった焼き菓子、作ってみたんですよ!」


「本当ですか?」


「失敗しちゃって!」


 そう言うと、エリオットは大げさに肩を落とした。


「砂糖と塩を間違えました。」


 りつかは思わず吹き出した。


「ふふっ!」


「それは大変でしたね。」


 二人は顔を見合わせて笑う。


 その笑顔は、とても自然だった。


◇◇◇


 少し離れた場所で、レオンは薬瓶を棚へ戻していた。


 手は止まらない。


 表情も変わらない。


 けれど。


(……よく笑っている。)


 りつかがあんなふうに声を上げて笑う姿を、じっと見つめてしまう。


 もちろん嬉しい。


 彼女が笑えるようになったことは、自分にとっても喜ばしいことだ。


 それなのに。


 胸の奥で、小さく何かが引っかかった。


◇◇◇


「先生?」


 エリオットが声をかける。


「どうしました?」


「いや。」


 レオンは我に返る。


「何でもない。」


「そうですか?」


 エリオットは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。


◇◇◇


 帰り際。


「りつかさん。」


 エリオットが玄関で振り返る。


「今度また焼き菓子教えてくださいね!」


「はい。」


「今度はちゃんと砂糖を確認します。」


「ふふ、ぜひ。」


 また笑い声が響く。


 エリオットは手を振って帰っていった。


◇◇◇


 静かになった診療所。


 りつかは保存瓶を棚へ並べながら言った。


「エリオットさんって、面白い方ですよね。」


「ああ。」


「最初は少しびっくりしましたけど。」


「すごく話しやすくて。」


 レオンは短く返事をする。


「そうだな。」


 それだけだった。


 いつもと変わらない声。


 なのに。


(……どうしたんだろう。)


 りつかは少しだけ不思議に思った。


◇◇◇


 その夜。


 研究室で本を開いても、文字が頭に入らない。


 思い浮かぶのは、昼間の光景。


 エリオットに向けられたりつかの笑顔。


「……。」


 レオンは静かに目を閉じる。


 そして、ようやく気づく。


「嫉妬……か。」


 口にした瞬間、自分で苦笑してしまった。


 こんな感情は初めてだった。


 エリオットは友人だ。


 誠実で、優しい青年だと知っている。


 だから責める理由など何一つない。


 りつかだって、普通に話していただけ。


 何も悪くない。


 それでも。


 胸の奥が少しだけ苦しくなる。


「困ったな。」


 小さく呟く。


「私は……思っていた以上に。」


 言葉はそこで止まる。


 続きを口にしなくても、もう分かっていた。


 彼女が笑うことは嬉しい。


 でも、その笑顔を見ているのが自分ではないと、少しだけ寂しい。


 それが恋なのだと。


 レオンは静かに受け入れ始めていた。

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