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第三十話 当たり前の幸せ

第三十話 当たり前の幸せ


 父とカイルを乗せた馬車が見えなくなるまで、りつかは手を振っていた。


「優しいご家族ですね。」


 ぽつりと呟く。


 レオンも静かに頷いた。


「ああ。」


「昔は反対されたこともあったが……。」


「今は一番の理解者だ。」


 その声には、家族への深い信頼が滲んでいた。


◇◇◇


 夕方になると、りつかは台所へ立った。


「今日は少し豪華にしましょう。」


 父たちが持ってきてくれた新鮮な野菜と、庭で採れた香草。


 鍋から立ちのぼる湯気に、子猫が興味津々で近づいてくる。


「こら、熱いよ。」


 抱き上げると、子猫は名残惜しそうに鍋を見つめた。


 その様子に思わず笑みがこぼれる。


◇◇◇


 食卓には、温かな料理が並んだ。


「いただきます。」


 二人の声が重なる。


 しばらく静かに食事をしていると、りつかがふと顔を上げた。


「レオンさん。」


「何だ。」


「今日、お父さまとお兄さまが来てくださって、すごく嬉しかったです。」


「あの……。」


 少し照れながら続ける。


「私まで家族みたいに迎えてくださって。」


 レオンの手が止まる。


「迷惑じゃないかなって、少し心配してたんです。」


 異世界から来た、自分。


 突然この家で暮らすようになった、自分。


 きっと戸惑われてもおかしくないと思っていた。


 けれど今日のお父さんは、最初から穏やかに笑ってくれた。


 カイルも、気さくに話しかけてくれた。


「……嬉しかったです。」


 その笑顔を見て、レオンはゆっくりと言った。


「父上も兄上も。」


「君が来てくれたことを喜んでいる。」


「本当ですか?」


「ああ。」


「君は、この家の大切な客人だから。」


 一瞬だけ、レオンは言葉を選ぶ。


 ――客人。


 本当は、もう少し違う言葉が浮かんだ。


 けれど、それを口にするには早すぎる。


「それに。」


「父上は、人を見る目がある。」


「君が優しい人だと分かったから、安心したんだ。」


 りつかはほっとしたように笑った。


「よかった……。」


◇◇◇


 食後、りつかは食器を洗っていた。


 レオンも隣で布巾を手に取る。


「私がやりますよ!」


「二人でやれば早い。」


 そう言って自然に皿を拭き始める。


 少し前まで、一人で何でもこなしていたレオンが。


 今では「一緒にやる」が当たり前になっていた。


「ふふ。」


 りつかが笑う。


「どうした?」


「なんだか、新婚さんみたいですね。」


 言った瞬間、りつかは固まった。


「えっ……!」


「ち、違います! そういう意味じゃなくて!」


 顔が真っ赤になる。


「えっと、その、一緒に家事をしてるから……!」


 慌てて両手を振る。


 レオンも一瞬だけ動きを止めた。


 胸が大きく鳴る。


 けれど表情は変えない。


「そうだな。」


 穏やかに返す。


「協力するのは良いことだ。」


「は、はい……。」


 りつかは恥ずかしさのあまり、それ以上何も言えなかった。


◇◇◇


 その夜。


 自室へ戻ったりつかは、布団へ顔を埋めた。


「もう……!」


 思い出すだけで恥ずかしい。


「なんで新婚さんなんて言っちゃったんだろう……。」


 子猫が心配そうに布団へ飛び乗る。


「大丈夫、大丈夫だから。」


 そう言いながらも、耳まで真っ赤だった。


◇◇◇


 一方、研究室。


 レオンは本を開いていた。


 しかし、一文字も頭に入らない。


『なんだか、新婚さんみたいですね。』


 その一言だけが、何度も繰り返し思い出される。


「……。」


 静かに額へ手を当てる。


 平静を装えたと思っていた。


 だが、本当は。


 心臓はずっと落ち着かなかった。


「困ったな。」


 苦笑が漏れる。


 りつかは失言だと思っているだろう。


 もちろん、その通りだ。


 だからこそ。


 自分だけが嬉しくなってしまったことを、知られてはいけない。


 レオンは小さく息をつき、ランプの火を見つめる。


 今日もまた。


 胸の奥にある想いは、誰にも気付かれることなく、少しだけ大きくなっていくのだった。

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