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第二十七話 あなたの帰る場所

第二十七話 あなたの帰る場所


 朝早く。


 レオンは温室で薬草の様子を見ていた。


 旅の間、水やりを任せていた苗はどれも元気に育っている。


「上手に世話をしてくれたな。」


 葉に触れながら、小さく笑う。


「それ、りつかさんが毎日話しかけていましたから。」


 後ろからアルバートの声がした。


「話しかけて?」


「ああ。『今日も元気だね』とか、『もう少しで花が咲くね』とか。」


 レオンは少し驚く。


「植物に?」


「ええ。」


 アルバートは楽しそうに笑った。


「返事はしませんけどね。」


「……。」


 レオンは苗を見つめる。


 どこか嬉しそうに葉を揺らしているように見えた。


◇◇◇


 昼過ぎ。


 りつかは診療所の棚を整理していた。


「あっ。」


 一冊の本が落ちる。


 拾おうとしゃがんだ瞬間、上の棚から木箱がずるりと滑った。


 届かない。


 そう思った次の瞬間。


「危ない。」


 レオンが素早く手を伸ばえ、木箱を受け止めた。


 ガタン、と鈍い音が響く。


「大丈夫か。」


「は、はい!」


 りつかは目を丸くする。


「ありがとうございます……。」


「怪我は?」


「してません。」


 ほっとしたように笑う。


 レオンも安心して息をついた。


 木箱を棚へ戻そうとして。


 ふと、手が止まる。


(……今。)


 もし、一歩遅れていたら。


 りつかに当たっていたかもしれない。


 その想像だけで、胸が冷たくなる。


◇◇◇


「ごめんなさい。」


 りつかは申し訳なさそうに俯く。


「私、慌てちゃって……。」


「君は悪くない。」


 レオンは静かに首を振る。


「棚の置き方を見直そう。」


「でも……。」


「怪我がなくて良かった。」


 その一言に、りつかは小さく笑った。


「心配性ですね。」


「そうかもしれない。」


 レオンも苦笑する。


 以前なら。


 こんなことは「事故にならなくて良かった」で終わっていた。


 なのに今は。


 心臓の鼓動が、まだ速い。


◇◇◇


 夕方。


 診療所を閉めるころ、一人の旅人が道を尋ねてきた。


「すみません。」


「王都へ行く道はこちらで合っていますか?」


 レオンが地図を広げて説明している間。


 旅人はふと、りつかへ目を向けた。


「妹さんですか?」


 その言葉に。


 レオンは一瞬だけ言葉を失う。


 妹。


 違う。


 家族。


 それも少し違う。


 患者でもない。


 助手でも、それだけでは足りない。


「……。」


 どの言葉も、自分の気持ちに当てはまらない。


 すると、りつかが困ったように笑った。


「私は、このおうちでお世話になっているんです。」


「先生には本当に良くしていただいていて。」


 旅人は納得したように頷いた。


「なるほど。」


「いいご縁ですね。」


 そう言い残して去っていく。


◇◇◇


 静けさが戻る。


 レオンは扉を閉めながら、小さく呟いた。


「縁……か。」


 りつかが首を傾げる。


「どうしました?」


「いや。」


「君は、この家が好きか?」


 突然の質問だった。


 りつかは少し驚き、それから迷いなく答える。


「大好きです。」


 その返事だけで十分だった。


「ここへ来るまでは、自分の居場所なんて分からなかったんです。」


「でも今は。」


 庭を見つめる。


 花壇。


 温室。


 暖炉の煙突。


 窓辺で眠る白い子猫。


 全部が愛おしい。


「帰ってくるたびに、ほっとするんです。」


 そして。


 少し照れながら笑う。


「レオンさんが『おかえり』って言ってくれるから。」


 その瞬間だった。


 レオンの胸の中で、長い間名前のなかった感情が、静かに形になる。


 ――帰る場所。


 母の手帳に書かれていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。


 『帰る場所は、きっとまた見つかる。』


 あの言葉の意味を、少しだけ理解した気がした。


 りつかにとって、この家が帰る場所なら。


 自分にとってもまた。


 彼女の「ただいま」と「おかえり」があるこの日々こそ、帰る場所になっていたのだ。


 レオンは穏やかに微笑む。


「そうか。」


 たった二文字。


 けれど、その胸の内では、もう答えは出ていた。


 彼は、りつかを愛している。


 失いたくないと思うほど。


 この笑顔を守りたいと願うほど。


 誰にも悟られないよう、静かに。


 深く。


 恋をしてしまっていた。


 そのことを知っているのは、夕暮れの風と、窓辺で目を細める白い子猫だけだった。

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