第二十六話 眠れない理由
第二十六話 眠れない理由
その日の夕食は、りつかが朝から仕込んでいた野菜のスープだった。
「おかえりなさい。」
そう言って差し出された湯気の立つ器。
レオンは一口飲み、小さく息をつく。
「……美味しい。」
「本当ですか?」
「ああ。」
その一言だけで、りつかは花が咲いたように笑った。
「よかった!」
白い子猫も「にゃあ」と鳴き、まるで会話に加わるようだった。
三人で囲む食卓は、たった三日離れていただけとは思えないほど、いつもの空気に戻っていた。
◇◇◇
食後。
りつかは旅で使った上着を受け取る。
「洗っておきますね。」
「ありがとう。」
上着を抱えて廊下へ向かうりつかの後ろ姿を、レオンは自然と目で追っていた。
その姿が見えなくなってから、ようやく自分が見送っていたことに気付く。
(……何をしているんだ。)
苦笑が漏れる。
◇◇◇
その夜。
研究室には、ランプの明かりだけが灯っていた。
万能薬の調合記録を開く。
数式を書き込む。
薬草の配合を見直す。
いつもなら時間を忘れて没頭できる作業だった。
しかし今日は、同じ行を何度も読み返してしまう。
「集中できないな。」
椅子にもたれ、小さくため息をつく。
頭に浮かぶのは研究ではなく、昼間の光景だった。
広場で笑うりつか。
エリオットと話していた姿。
そして――
『レオンさん!』
自分を見つけた瞬間の、あの笑顔。
思い出すだけで、胸が温かくなる。
同時に、広場で感じた息苦しさも蘇る。
◇◇◇
コンコン。
小さなノックが響いた。
「どうぞ。」
扉が開き、りつかが顔を覗かせる。
「まだ起きていたんですね。」
「ああ。」
手には温かい薬草茶のカップ。
「眠れないかなと思って。」
「ありがとう。」
カップを受け取ると、ほっとする香りが立ち上る。
「旅で疲れてると思うので、今日は早く休んでくださいね。」
それだけ言うと、りつかはにこりと笑う。
「おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
扉が閉まる。
部屋はまた静かになった。
レオンは薬草茶を一口飲む。
「……敵わないな。」
ぽつりと漏れた言葉は、誰にも聞こえない。
自分が疲れていることを、言わなくても気付く。
自分が好きな香りを覚えていてくれる。
それがどれほど嬉しいことなのか、りつかはきっと知らない。
◇◇◇
その頃。
りつかも自室で布団に入っていた。
白い子猫が枕元で丸くなっている。
「レオンさん、ちゃんと眠れるかな。」
旅から帰った日は、いつもより疲れているはずだ。
薬草茶は濃すぎなかったかな。
スープの味は口に合っていたかな。
そんなことを考えているうちに、小さく笑ってしまう。
「心配しすぎかな。」
子猫が「にゃ」と鳴く。
「そうだね。」
りつかは子猫を優しく撫でた。
「でも、大切な人だから。」
その言葉に、自分で少し照れてしまう。
"大切な人"。
家族とは少し違う。
恩人という言葉だけでも足りない。
今の自分には、それが一番しっくりくる表現だった。
◇◇◇
夜更け。
レオンはようやく本を閉じた。
窓の外には、満天の星空。
その静けさの中で、自分に問いかける。
――もし。
りつかが、誰か別の人と笑い合い。
誰か別の人の帰りを待つようになったら。
その想像をした瞬間。
胸が強く痛んだ。
「……そういうことか。」
静かな部屋に、小さな声が落ちる。
薬草の知識はあっても。
病の原因は見抜けても。
自分自身の心だけは、ずっと診断できずにいた。
けれど今なら分かる。
これは執着でも、保護欲だけでもない。
もっと単純で。
もっと厄介な感情。
レオンは目を閉じ、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「私は……。」
その先の言葉だけは、まだ口にできなかった。




