第二十話 母の庭
第二十話 母の庭
朝露が残る庭を、りつかは子猫と一緒に歩いていた。
「今日はどのお花が咲いたかな?」
子猫は足元をちょこちょこと歩き、ときどき花壇の間へ飛び込んでは、また戻ってくる。
「そっちはまだつぼみだよ。」
そう話しかけると、子猫は「にゃ」と返事をした。
その様子を、温室の前からレオンが眺めている。
自然と頬が緩んでしまう。
「楽しそうだな。」
「レオンさん!」
りつかは嬉しそうに手を振った。
「見てください! この子、お花の匂いを嗅ぐのが好きみたいです。」
レオンも花壇へ歩み寄る。
子猫は彼を見ると、当たり前のように足元へ寄ってきた。
以前では考えられない光景だった。
「本当に変わったな。」
「はい。」
りつかは微笑む。
「きっと安心してるんですね。」
その言葉に、レオンは静かに頷いた。
◇◇◇
花壇の奥には、一角だけ特に大切に手入れされている場所があった。
白や青、薄紫の花が整然と咲いている。
「ここだけ雰囲気が違いますね。」
りつかが首を傾げる。
レオンは少しだけその花壇を見つめた。
「……母が育てていた花だ。」
「お母さまの?」
「ああ。」
りつかはそっと花へ触れる。
「きれい……。」
「父上が母のために作った庭なんだ。」
「亡くなったあとも、そのまま残している。」
その声は穏やかだった。
悲しみはある。
でも、それ以上に大切な思い出として胸にしまわれているようだった。
「優しいご家族ですね。」
「ああ。」
短い返事。
けれど、その一言にはたくさんの想いが込められていた。
◇◇◇
りつかは、一輪の青い花の前で立ち止まった。
「この花……。」
「どうした?」
「初めて見るはずなのに。」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「なんだか、懐かしい気がします。」
レオンは驚いたように花を見る。
「懐かしい?」
「はい。」
「変ですよね。」
りつかは照れ笑いを浮かべる。
「見たことないはずなのに。」
レオンは花へ視線を落とした。
その花は、この国でも珍しい品種だった。
母が特に大切に育てていた花。
「……。」
ほんの一瞬だけ、胸に何かが引っ掛かる。
だが、それ以上考えることはなかった。
「香りが似ていたのかもしれない。」
「そうかもしれませんね。」
りつかも深くは気にせず笑った。
◇◇◇
昼食のあと。
レオンは書庫の整理を始めた。
古い植物図鑑や研究記録を並べ替えていると、一冊の古びた手帳が棚の奥から落ちる。
「これは……。」
見覚えのある革表紙。
母が使っていた植物観察の手帳だった。
ぱらりとページをめくる。
そこには花の絵と栽培記録が丁寧な字で書かれている。
最後のページを開いた、その時。
小さな紙片がひらりと落ちた。
拾い上げる。
そこには、母の字で一言だけ記されていた。
『帰る場所は、きっとまた見つかる。』
「……?」
レオンは静かに首を傾げる。
病と闘っていた母が、なぜこんな言葉を書いたのだろう。
まるで。
誰かへ向けた励ましのようだった。
◇◇◇
夕方。
りつかは暖炉の前で子猫を抱きながら眠っていた。
レオンはその姿を見つめ、それから手帳へ視線を落とす。
母の言葉。
りつかが言っていた「帰る場所」。
偶然にしては、どこか不思議な符合だった。
しかし今は、答えを探そうとは思わない。
暖炉の火が静かに揺れる。
その温かな光の中で、レオンは手帳をそっと閉じた。
「……いつか分かる日が来るか。」
その呟きは誰にも届かず、静かな家の中へ溶けていった。




