第二話 薬師の家
第二話 薬師の家
森を歩き始めてから、どれくらい経っただろう。
レオンさんは無駄なことをほとんど話さなかった。
それでも歩幅は私に合わせてくれている。
急かすこともなく、疲れていないかと何度も振り返ることもない。
ただ、私が遅れない速度で黙々と歩いている。
(……優しい人なのかな。)
そんなことを考えていると、不意に木々が途切れた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
そこには小さな家が建っていた。
石造りの壁に、濃い茶色の屋根。
家の横には色とりどりの花壇があり、その奥には見たこともない植物が整然と植えられている。
さらに少し離れた場所には、大きなガラス張りの建物があった。
「あれは……?」
「温室だ。」
短く答えるレオンさん。
「薬草を育てている。」
家へ近付くと、ふわりと薬草の香りが漂ってきた。
少し苦いような、それでいて落ち着く香り。
玄関を開けると、中は思っていたよりずっと広かった。
本棚が壁一面に並び、見たこともない分厚い本がぎっしりと詰め込まれている。
机には紙束と植物の標本。
棚には色とりどりの液体が入った瓶。
そして部屋の奥には、大小さまざまな乳鉢や調合器具が並んでいた。
(本当に薬師さんなんだ……。)
「座っていてくれ。」
そう言うと、レオンさんはすぐに奥の部屋へ消えていく。
一人残された私は、おそるおそる椅子へ腰掛けた。
緊張する。
知らない世界。
知らない家。
知らない人。
逃げようと思えば逃げられる。
でも、どこへ?
森へ戻ったところで、生きていける気がしなかった。
ほどなくして、レオンさんが湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「薬草茶だ。」
「ありがとうございます。」
一口飲む。
ほんのり甘く、優しい香りが口いっぱいに広がった。
「……美味しい。」
「飲めそうで安心した。」
少しだけ肩の力が抜けたような声だった。
それから彼は戸棚からパンとスープを取り出し、手際よく温め始める。
驚くほど慣れた動きだった。
「料理もするんですね。」
「一人暮らしだからな。」
「すごいです……。」
「普通だ。」
普通、なのかな。
家事も料理も研究もできるなんて。
そんなことを考えているうちに、食卓へ湯気の立つ料理が並んだ。
「いただきます。」
久しぶりに温かい食事を口にした。
思わず目頭が熱くなる。
「……?」
レオンさんが静かにこちらを見る。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「何故謝る。」
「その、泣いてしまって……。」
「泣きたい時に泣くことは悪いことではない。」
あまりにも真っ直ぐな返事だった。
その一言だけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどける。
「……ありがとう、ございます。」
レオンさんは頷くだけだった。
食事を終えると、彼は小さな手帳を開く。
「いくつか質問をしてもいいだろうか。」
「はい。」
「君がいた世界についてだ。」
やっぱり研究者なんだ。
質問はどれも穏やかだった。
世界の名前。
季節。
文字。
病気。
薬。
食べ物。
生活。
まるで授業を受けているようで、気付けば私は夢中で答えていた。
「……なるほど。」
さらさらとペンが走る。
「非常に興味深い。」
そう言った彼の表情は、少しだけ楽しそうだった。
その時だった。
コンコン、と玄関を叩く音が響く。
「先生ー!」
元気な子どもの声。
「薬をもらいに来たよー!」
レオンさんは立ち上がる。
「少し待っていてくれ。」
「はい。」
扉が開く音。
私は部屋の奥から様子をうかがった。
外には七、八歳くらいの男の子が立っている。
けれど、レオンさんの姿を見るなり、その子はぴたりと固まった。
「ひっ……。」
小さく悲鳴を上げて、一歩後ずさる。
「あ、お母さぁん……。」
泣きそうな声。
レオンさんは一瞬だけ目を閉じると、慣れた様子で薬袋を差し出した。
「薬だ。飲み方は昨日説明した通り。」
「は、はい……。」
男の子は薬を受け取ると、一目散に走っていった。
その背中を見送りながら、レオンさんは小さく息をつく。
……なんだろう。
さっきの表情。
少しだけ、寂しそうだった。
戻ってきたレオンさんは、何事もなかったように椅子へ座る。
「続けよう。」
私は少し迷ってから口を開いた。
「あの……。」
「?」
「レオンさんって……。」
言っていいのか分からない。
でも、気になってしまった。
「子どもに、怖がられることが多いんですか?」
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
レオンさんは困ったように笑った。
「……よくあることだ。」
その笑顔はどこか諦めたようで、少しだけ寂しかった。




