第十七話 ただいま
第十七話 ただいま
その日は朝から雨だった。
屋根を優しく叩く雨音が、家の中に静かに響いている。
外へ薬草を採りに行くこともできず、レオンは研究室で調合を続けていた。
りつかは居間の窓辺で、本を読んでいる。
時折、ページをめくる音だけが聞こえる。
静かな時間だった。
◇◇◇
昼過ぎ。
お茶を淹れていたりつかは、ふと窓の外を見つめた。
「雨、止みませんね。」
「ああ。」
「前の世界でも、雨の日は好きだったんです。」
その言葉に、レオンは顔を上げる。
りつかが、自分から元の世界の話をするのは珍しかった。
「学校から帰る途中に、雨の音を聞くのが好きで。」
少しだけ懐かしそうに笑う。
「でも……。」
その笑顔が、少しだけ曇る。
「帰るのは、あまり好きじゃありませんでした。」
レオンは何も言わない。
ただ静かに耳を傾ける。
「家にいても、一人でいることが多かったんです。」
「お父さんもお母さんも忙しくて。」
「悪い人じゃなかったんです。」
「でも、みんな忙しくて。」
ぽつり、ぽつりと話す。
「私が学校であったことを話しても、『あとでね』って言われることが多くて。」
「その『あとで』は、来ないことも多かったです。」
雨音だけが響く。
責めるような口調ではない。
ただ、事実を話しているだけだった。
「だからかな。」
りつかは苦笑する。
「誰かに迷惑をかけるのが苦手になっちゃって。」
――帰りたいです。
たったその一言が言えなかった森の日を、レオンは思い出す。
あれは、あの日だけではなかったのだ。
幼い頃から積み重なってきたものだった。
◇◇◇
「でも。」
りつかはカップを両手で包み込みながら笑った。
「今は違います。」
「……?」
「ここでは、『おかえり』って言ってもらえるから。」
レオンは息を止める。
「私も『ただいま』って言える。」
照れくさそうに笑う。
「それが、すごく嬉しいんです。」
その一言が。
レオンの胸の奥へ、ゆっくりと染み込んでいく。
◇◇◇
その日の夕方。
雨が少し弱くなった頃だった。
レオンは温かいスープを器によそう。
「今日は私が運ぶよ。」
りつかが手を伸ばす。
「熱い。」
「大丈夫です。」
二人で食卓へ運ぶ。
いつもの席に座る。
いつもの景色。
なのに今日は、どこか特別に思えた。
「いただきます。」
「いただきます。」
湯気の向こうで、りつかが微笑む。
レオンはその笑顔を見つめながら、静かに思う。
(この家で。)
(この食卓で。)
(これからも彼女が笑っていられるように。)
その願いだけは、何があっても守りたい。
◇◇◇
食事が終わると、りつかは食器を抱えて立ち上がる。
「洗ってきますね。」
「ああ。」
ぱたぱたと台所へ向かう小さな背中。
レオンはふと立ち上がった。
「りつか。」
「はい?」
振り返る。
その瞬間。
レオンはほんの少しだけ、柔らかく笑った。
「……おかえり。」
「えっ?」
りつかは目を丸くする。
「今日はずっと家にいましたよ?」
思わず笑ってしまう。
「ふふ、不思議なレオンさん。」
レオンも小さく笑う。
「そうだな。」
りつかは首を傾げながらも、嬉しそうに笑った。
「じゃあ……ただいま、です。」
その言葉に。
レオンは静かに頷く。
「ああ。」
たったそれだけのやり取りだった。
けれど。
二人にとっては、何よりも大切な言葉だった。
外ではまだ、小さな雨が降り続いている。
けれど、この家の中だけは、春のような温もりに包まれていた。




