第十二話 名前のない感情
第十二話 名前のない感情
その夜。
りつかが眠りについた頃。
レオンは一人、研究室に残っていた。
机の上には開かれたままの研究記録。
万能薬の調合法について書きかけたページ。
しかし、ペンは少しも進まない。
頭に浮かぶのは、今日の森での出来事ばかりだった。
『レオンさん……!』
自分の姿を見つけた瞬間、安心したように笑って、それから涙をこぼしたりつか。
『帰りたいって言えなくて……。』
震える声。
小さな肩。
頭を撫でたときの、ほっとした表情。
思い返すたびに胸が締めつけられる。
「……集中できない。」
小さく呟く。
薬草の配合を考えようとしても、数字が頭に入ってこない。
論文を読んでも、文字が目を滑っていく。
今まで一度も、こんなことはなかった。
レオンは本棚へ向かった。
医学書。
精神医学。
生理学。
どれも違う。
原因となる病気は見当たらない。
「精神的動揺……。」
静かにページをめくる。
『特定の人物について繰り返し考える』『集中力の低下』『感情の起伏が大きくなる』。
当てはまる。
だが、その先には。
『恋愛感情でも同様の症状が見られる』
その一文が書かれていた。
レオンの指先が止まる。
「……恋愛。」
その言葉を、小さく口の中で繰り返す。
恋愛。
自分には縁のないものだと思っていた。
誰かと人生を共に歩むことよりも、薬を作ることを選んできた。
それなのに。
思考は自然とりつかへ向かう。
朝、「おはようございます」と笑う姿。
薬草を干しながら失敗して慌てる姿。
花を見て目を輝かせる姿。
「優しい人ですね」と笑った日。
「私はレオンさんの顔、好きですよ」と照れながら言った日。
「おかえりなさい」と迎えてくれる毎日。
そして今日。
自分を見つけて、安心して涙を流した姿。
どれも鮮明に思い出せる。
まるで昨日のことのように。
「……。」
ゆっくりと本を閉じる。
部屋は静まり返っていた。
聞こえるのは、時計の針の音だけ。
「私は……。」
そこで初めて。
レオンは静かに息を呑んだ。
「りつかが、好きなのか。」
言葉にした瞬間だった。
胸の奥で、何かがすとんと収まる。
長い間、名前の分からなかった感情に、ようやく名前が付いた。
好き。
恋。
それが答えだった。
◇◇◇
しかし。
安堵はほんの一瞬だった。
その直後。
別の記憶が蘇る。
森で、エリオットがりつかの名前を呼んだこと。
笑いかけていたこと。
少しだけ距離が近かったこと。
あの光景を思い出しただけで、胸が重くなる。
「……。」
レオンは自分の手を見つめた。
あの時。
もっと早く迎えに行けばよかった。
そもそも、一人で行かせるべきではなかった。
そんな考えが次々と浮かぶ。
「違う。」
静かに首を振る。
りつかは何も悪くない。
約束を破ろうとしたわけでもない。
困っていただけだ。
だから悪いのは彼女ではない。
それでも。
胸の奥で、小さな声が囁く。
――もう一人で行かせたくない。
――他の男と二人きりにしたくない。
レオンは目を閉じる。
「……これは。」
恋とは。
こんなにも独り占めしたくなるものなのだろうか。
答えは分からない。
けれど一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分はもう。
彼女のいない未来を考えられない。
◇◇◇
翌朝。
りつかは何も知らずに食卓へやってきた。
「おはようございます!」
いつもと同じ笑顔。
レオンはその笑顔を見つめる。
「……おはよう。」
声は普段通りだった。
表情も変わらない。
けれど心の中は、昨日までとはまるで違っていた。
(好きだ。)
その事実を知ってしまった以上、もう以前と同じ気持ちではいられない。
それでもレオンは決める。
この想いを伝えるつもりはない。
りつかはまだ十六歳。
突然異世界へ来て、不安なことばかりの毎日を過ごしている。
そんな彼女に、自分の想いを押しつけたくはない。
だから。
この恋は、自分だけのものにしよう。
そう静かに心へ誓う。
その決意が。
後に誰よりも重たい愛へと変わっていくことを、レオン自身もまだ知らなかった。




