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第十一話 胸を焼くもの

第十一話 胸を焼くもの


 「だからさ、この先に大きな木があるんだ。」


 エリオットは楽しそうに話し続ける。


 私は曖昧に笑って頷くだけだった。


「……そうなんですね。」


「うん。レオン先生もよく採りに来るよ。」


 悪い人じゃない。


 むしろ親切なのだと思う。


 だからこそ困ってしまう。


 「帰ります」と言えばいい。


 たった一言。


 それだけなのに。


 喉まで出かかった言葉は、どうしても口から出てこなかった。


 人を傷付けるのが怖い。


 嫌な顔をされるのが怖い。


 昔からそうだった。


「りつか?」


 名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。


「疲れた?」


「い、いえ……。」


「じゃあ、もう少しだけ歩こう。」


「……。」


 もう約束の場所から少し離れてしまっている。


(どうしよう……。)


 レオンさんとの約束。


 『近くの木だけ。』


 頭では分かっている。


 でも。


 「帰ります。」


 その一言が言えない。


 胸が苦しくなってきた。


◇◇◇


 一方、その頃。


 森の中を歩くレオンの足は、自然と速くなっていた。


(おかしい。)


 まだ昼には少し早い。


 本来なら、様子を見に行く必要などない。


 それなのに。


 胸騒ぎが消えなかった。


 木々の間を進みながら、周囲を見回す。


 籠に入った木の実が少し落ちている。


 りつかが落としたものだろう。


「……。」


 その先へ視線を向ける。


 人の話し声。


 笑い声。


 レオンは木陰で足を止めた。


◇◇◇


「そうだ、この花知ってる?」


 エリオットが白い花を摘んで見せる。


「春しか咲かないんだ。」


「きれい……。」


 思わず見入ってしまう。


 でも次の瞬間。


(違う。)


 私は何をしているんだろう。


 早く帰らないと。


「あ、あの……。」


 勇気を振り絞る。


「私、そろそろ……。」


「もう帰る?」


 少し残念そうな笑顔。


「じゃあ送っていこうか。」


「えっ。」


「一人だと危ないし。」


 違う。


 そうじゃない。


 送ってほしいわけじゃない。


 でも。


 「大丈夫です。」


 その言葉すら、相手を拒絶しているようで言えなくなる。


 胸がぎゅっと締め付けられる。


 怖い。


 この人が怖いんじゃない。


 どうしたらいいか分からない、この状況が怖い。


 思わず籠を抱き締めた、その時。


「りつか。」


 低く落ち着いた声が響いた。


 その声を聞いた瞬間。


 胸に張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。


「レオンさん……!」


 思わず振り返る。


 木漏れ日の向こうに立つ、大きな人影。


 いつもの黒いコート。


 見慣れた穏やかな瞳。


 それだけで。


 心の底から安心してしまった。


「すみません……。」


 気付けば、そう呟いていた。


 レオンはゆっくりこちらへ歩いてくる。


 その視線が、一瞬だけエリオットへ向けられた。


 静かな眼差し。


 怒鳴るわけでもない。


 睨みつけるわけでもない。


 それなのに。


 森の空気が少しだけ張りつめた。


「レオン先生。」


 エリオットは苦笑した。


「偶然会ったから話してただけですよ。」


「ああ。」


 短い返事。


「彼女を迎えに来た。」


 それだけだった。


 それだけなのに。


 りつかは自然とレオンの隣へ歩み寄っていた。


 その姿を見た瞬間。


 レオンの胸に、今まで味わったことのない感情が込み上げる。


 安心。


 それと同時に。


 どうして彼女は、この男の隣にいた。


 どうして笑いかけられていた。


 どうして自分以外の男が、彼女の名前を呼んだ。


 胸の奥が熱い。


 息が苦しい。


 頭の中が静かに焼けるようだった。


「それじゃあ俺は。」


 エリオットは空気を察したのか、軽く手を振って森の奥へ去っていく。


 レオンはその背中を見送る。


 見送るだけ。


 それ以上何もしない。


 できない。


 自分でも、この感情が何なのか分からないから。


「……帰ろう。」


 ようやくそう言うと、りつかは小さく頷いた。


「はい。」


 二人は並んで歩き出す。


 しばらく沈黙が続いたあと。


 レオンが静かに口を開いた。


「怖かったか。」


 その一言で。


 私は堪えていたものが溢れてしまった。


「……少しだけ。」


 ぽろり、と涙がこぼれる。


「悪い人じゃないって分かってたんです。」


「でも……帰りたいって言えなくて。」


「約束も守れなくて。」


「どうしたらいいか分からなくて……。」


 声が震える。


 レオンは立ち止まった。


 そして。


 そっと私の頭へ手を乗せる。


「よく頑張った。」


 その一言だけだった。


「君は悪くない。」


 優しく髪を撫でる大きな手。


 私は安心して泣いてしまった。


 一方で。


 レオンはりつかに気付かれないよう、静かに目を閉じる。


 ——もし、自分が迎えに来るのが遅かったら。


 その想像だけで。


 胸の奥から、どす黒い何かがゆっくりと湧き上がってくる。


 それは薬学書にも医学書にも載っていない感情だった。


 ただ一つだけ、彼にも分かることがある。


 もう二度と、彼女をこんなふうに困らせたくない。


 その想いだけが、誰よりも強く胸に刻まれていた。

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