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第9話 彼女が踏み込めなかった日

前の夜、ひかりは珍しく僕より先に帰った。

靴箱の前で、また小さな紙を見つけたからだ。読み終えたあと、あいつは破りもせず、しばらく指のあいだで折りたたんでいた。

「なんて書いてあった」

「気持ち悪い文」

「雑だな」

「雑でいい」

それ以上は聞かなかった。聞けばたぶん、少しだけ核心に触れる。触れてほしくないときのひかりは、笑うでも怒るでもなく、ただ黙る。その黙り方だけは、長い付き合いで分かる。

だから翌朝、一年の昇降口いっぱいに噂文がばらまかれていて、その末尾に同じ匂いの一文が見えたとき、僕はまっ先にひかりを見た。

案の定、顔色が変わっていた。

一年の昇降口に、ある朝まとめて紙が入っていた。

『一年四組の朝比奈は、先生と付き合ってる』

最悪な噂だった。しかも名前を出された朝比奈は、生活指導の常連でも何でもない、ただ成績のいい女子だった。たちまち廊下はざわつき、否定しても追いつかない速さで話が広がる。

「誰がこんな……」

言いかけたひかりが、ぴたりと止まった。

紙の末尾に、見覚えのある一文があったからだ。

『見ているだけの人が、いちばん嫌い』

僕は横顔を見る。青ざめていた。こいつが本気で止まった顔を、初めて見た。

「湊」

「うん」

「……今回、先に行って」

言われた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。でも、行くしかなかった。

噂文はコピー用紙ではなく、図書室のプリンタで出した紙だった。余白にだけ細かい黒点がある。秋月がすぐ気づく。

「この汚れ、図書室のやつ」

「出力時間は?」

「昨日の放課後。利用簿なら追える」

「行ける?」

「行ける」

ひかりは昇降口の壁にもたれたまま動かない。僕は秋月と一緒に図書室へ向かった。

前日に図書室へ行った生徒は三人。うち一人、二年の推薦候補者と仲のいい女子が、やけに朝比奈を敵視していた。進学説明会の代表枠を朝比奈に取られそうだからだ。

「でも“先生と付き合ってる”は飛躍しすぎじゃない?」

秋月が首を傾げる。

「ただ汚せればよかったんだと思う」

僕は答える。

「噂の内容が本当かどうかじゃなく、一回イメージを壊せば勝ち」

「最低だね」

「うん」

朝比奈本人に会うと、彼女は思ったより落ち着いていた。落ち着いているというより、固まっていた。

「先生と付き合ってるとか、そんなの」

「ないです」

「じゃあ、なぜそんな噂が」

「分からない。たぶん、補習」

「補習?」

「数学の長谷川先生に、放課後たまに教わってて」

「それだけで?」

「それだけで、だと思います」

十分あり得る。学校の噂は、事実より絵面で走る。

ひかりはまだ昇降口から動いていない。僕は一度だけ戻って、声をかけた。

「行くぞ」

「……無理」

「珍しいな」

「珍しい日だから」

その返しが、軽くもなんともない。

「いつもならお前が真っ先に殴りこむだろ」

「……ラノベの主人公ならそうする」

「じゃあ」

「今日は無理」

はっきりそう言われると、胸のあたりが変なふうに痛んだ。たぶん、こいつが止まることを僕はどこかで前提にしていなかった。

「分かった。今日は俺が行く」

「ごめん」

「あとで聞く」

「……うん」

それからは、僕が動いた。

図書室の利用簿、印刷ログ、封筒の柄、朝比奈のクラスの人間関係。全部をつなぐと、候補は一人に絞れた。進学説明会の代表枠で競っている生徒の友人、二年の長尾だ。

放課後、空き教室に呼び出すと、長尾は最初から不機嫌だった。

「何ですか」

「この噂文、君だろ」

「は?」

「図書室の出力時間、封筒の柄、あと、昨日朝比奈のこと“先生に気に入られてるから”って言ってたの、何人か聞いてる」

「それだけで?」

「それだけじゃない」

秋月が横からログのコピーを差し出す。

「印刷の直前に使ったアカウント、長尾さん」

「それ、勝手に見たの?」

「司書の先生の許可はもらった」

「最悪」

長尾は最後まで認めないつもりだった。けれど、噂文に使った封筒が彼女の机の奥から見つかったとき、ようやく黙った。

「……だって、あの子が代表になったら、由奈が落ちる」

「だから汚した?」

僕が訊く。

「先生と付き合ってるなんて、誰も本気じゃない。ただ、いったん汚せば、朝比奈は代表から外れると思った」

「最低」

秋月が小さく言う。

「分かってるよ」

全部終わったあと、ひかりは昇降口の隅でしゃがみこんでいた。

「悪かった」

僕が言うと、あいつは首を振った。

「違う。助かった」

「珍しいこと言うな」

「珍しい日だから」

しばらく沈黙が落ちる。

「いつも、こんなふうに見えてた?」

「何が」

「私。止まらないし、止まれないし、誰かが拾ってるの前提で前に出て」

僕は答えに少し迷った。

「……全部じゃない。でも、そういう日もあった」

「そっか」

ひかりは膝を抱えたまま、しばらく動かなかった。

「私、今日、何もしてない」

「してないわけじゃない」

「してないよ」

「止まったってことは、止まる理由があったってことだろ」

「それ、慰め」

「半分」

「半分は?」

「事実」

その日の帰り、こいつは一度も「ラノベの主人公ならそうした」と言わなかった。たぶん、言えなかったんだと思う。

噂文の件が片づいたあと、朝比奈は数学準備室の前で僕たちを待っていた。

「ありがとうございました」

 と言われても、すぐには頷けなかった。

「完全には消えないと思うから」

「それでもです」

彼女は真面目な顔でそう言った。

「放っておかれるのが、一番きついので」

その言葉に、少し遅れてひかりが反応した。昇降口の隅にしゃがみこんでいたあいつが、膝を抱えたまま顔を上げる。

「……放っておかれてない?」

「はい」

 朝比奈ははっきり言った。

「今日、真壁先輩と秋月先輩が動いてくれたから」

ひかりはその返事を聞いて、なぜか苦しそうな顔をした。

帰り道、橋の上でやっと言う。

「今日、ほんとは行かなきゃいけなかったのに」

「行けなかった」

「うん」

「でも、行けない日があることと、お前が今までやってきたことは別だろ」

「別じゃない気がする」

そこで、珍しく僕が少し苛立った。

「別だよ。お前、何でも一個にまとめるな」

「でも」

「今日止まったのは、お前が弱いからじゃなくて、刺さる場所に刺さったからだ」

「慰め」

「違う。観察」

ひかりは少しだけ黙ったあと、橋の欄干の向こうを見た。

「ラノベの主人公ならそうする、って言えなかった」

「言わなくていい日もある」

「そうかな」

「少なくとも今日は、俺が言う日だった」

自分で言って、少しだけ変な感じがした。こいつの台詞みたいだった。

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