第10話 もう一人の主人公
ひかりが一歩引いたまま数日が過ぎると、教室の空気まで少し変わった。
小さな揉め事が起きても、みんな無意識に僕を見るようになったのだ。消しゴムがなくなった、係決めで揉めた、誰かの発言が先生に曲解された。前ならひかりが飛びこんでいた場所に、今は何も起きない。その空白がそのまま僕のほうへ滑ってくる。
「真壁くん、これ見て」
「真壁、どう思う?」
「一ノ瀬さん、今日は……」
最後の問いにだけ、僕はうまく答えられなかった。
その朝もそうだった。説明会の資料が配られ、僕が机の上でそろえている横で、ひかりは本を開いたまま一度もページをめくらない。読んでいないのが分かる。
「お前、帰ってメッセージ見た?」
「見た」
「返信は」
「してない」
「そっか」
たったそれだけの会話なのに、距離が前より遠い気がした。そんな朝に限って、校舎じゅうへ紙が撒かれる。嫌な展開は、待ってくれない。
二学期最後の学校説明会の朝、校内は紙吹雪みたいになった。
ただし舞っていたのは装飾じゃない。コピーされた相談箱の投書、推薦候補者の下書き、文化祭の配役メモ、放送室のリクエストカード。誰かがばらばらにして、廊下中へ撒いたのだ。
「最悪だな……」
生徒も教師も拾うだけで手いっぱいだった。匿名の相談が匿名のまま踏みにじられている光景は、それだけで十分ひどい。
ひかりは紙を一枚拾い上げ、顔色を変えた。相談箱の古い投書で、端が破れている。たぶん、鍵の事件の時に見たものの続きだ。
そのとき、二階の渡り廊下から声が落ちてきた。
「それ、きみには見覚えがあるんじゃない?」
桐生蒼太だった。学校新聞の腕章をつけたまま、冊子を一部ずつ持っている。
『主人公の裏方――一ノ瀬ひかりの解決は、誰によって完成したのか』
見出しだけで嫌な予感がした。
「やめろ」
僕が言うと、桐生は静かに首を振った。
「やめないよ。だって、事実だから」
「事実でも、やり方ってものがあるだろ」
「きみたちに言われたくないな」
冊子にはこれまでの出来事が並んでいた。積立金の件で僕が秋月と教師の間を取り持ったこと。演劇部で僕が朗読劇への変更を通したこと。推薦の件で僕が英語教師の修正液に気づいたこと。放送室で僕が別ルートを提案したこと。
どれも小さい。でも、なければ結果は少しずつ違っていた。
「一ノ瀬さんがやってきたことを否定したいんじゃない」
桐生は言う。
「ただ、“正義の主人公”って物語の裏で、誰が傷を拾ってきたかを隠したまま、きみたちだけが美談になるのが気に入らない」
「美談になんてしてない」
僕が言い返す。
「してるよ」
桐生は淡々としていた。
「少なくとも、周りはそう見る。君は後始末をして、そのことを口にしない。一ノ瀬さんは前に出て、そのことを当然のように受け取る。綺麗すぎるだろ」
ひかりが、ゆっくりと僕を見る。その目に、怒りより先に浮かんだのは、理解だった。理解してしまった顔だった。
「……ほんとなんだ」
「ひかり」
「ずっと?」
答えるより先に、榊原が階段を上がってきた。
「桐生、やり方が最悪だ」
「知ってる。でも、君たちは秩序の名目で埋めるだけだろ」
「それとこれとは別だ」
「別じゃない。匿名の声も、裏方の仕事も、“表に出すと面倒だから”で処理してきたんだろ」
榊原と桐生が言い合っている。たぶん、どちらも半分は正しい。半分ずつ間違っている。
でも、その場でいちばん大きな音を立てずに崩れていたのは、ひかりだった。
「私、ひとりでやってるつもりだった」
その声が、驚くほど小さい。
「主人公ぶって、でも、実際には……」
「違う」
僕は即座に言った。
「違わない」
「違う」
「だって、お前がいなかったら、私は」
「ひかり」
呼び止めても、もう遅かった。
「私、誰の主人公でもなかったんだ」
そのまま背を向けて行ってしまう。追いかけるより先に、廊下に散った紙が風で鳴った。
桐生のやり方を殴りたかった。でも同時に、僕のほうにも後ろ暗さがあった。こいつを支えることで、僕自身も“必要とされる側”でいられたのだから。
昼休み、桐生を空き教室へ呼び出した。
「何がしたい」
「記事にしたい」
「それだけか」
「違う」
「じゃあ」
「確認したいんだよ。一ノ瀬ひかりが、誰に支えられて、どう立ってるのか」
「そんなの、本人にやる確認じゃない」
「きみたちもいつも他人にやってるだろ。暴きたくないものまで見せる」
ぐうの音も出ない種類の正論だった。
「でも」
桐生が冊子を机に置く。
「今日の出し方は悪かった。そこは認める」
「なら止めろ」
「止めない。ここで止めたら、また埋まるから」
「お前、自分が正しい側だと思ってるだろ」
「思ってない」
「嘘つけ」
「ほんとだよ。ただ、きみたちの物語の外にいたくないだけだ」
それは、少しだけ分かってしまう言葉だった。だから余計に腹が立つ。
放課後、ひかりは帰ったあとだった。教室の机の中に、小さく丸めた紙だけが入っていた。
『誰も来なかった。だから自分で行くしかなかった』
読んだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。桐生のまいたものだけじゃない。前から続いていた線が、ここでやっと形になり始めている。そういう感じだった。
その夜、僕は結局ひかりにメッセージを送れなかった。送る言葉が、全部「慰め」に見えたからだ。
ただ、送れない画面を見ながら、一つだけはっきりしていた。
こいつが前に出るのを、僕は止めたいわけじゃない。
止めるなら、壊れ方のほうだ。
もし明日、もう一度あいつが立てるなら。
そのときはたぶん、ラノベの主人公ならそうした、なんて言葉じゃなくてもいい。
それでも、前に出る選び方だけは、あいつのものだ。
◆
桐生との対面のあと、校内は嫌なざわつきのまま午後まで続いた。
記事の中身そのものより、“一ノ瀬ひかりは一人で解決していなかったらしい”という部分だけが、都合よく切り取られて広がる。人はいつだって、真相より扱いやすい要約のほうを好む。
「じゃあ、今までのって演出だったの?」
「真壁くんが実質探偵だったってこと?」
「でも、一ノ瀬さんが動かなかったら何も起きてなくない?」
どれも半分ずつ違う。半分ずつ当たっているから、余計に面倒だった。
放課後、僕は桐生を再び空き教室へ呼び出した。
「記事の続き、どこまで出すつもりだ」
「原本の扱いが決まるまで保留」
「意外だな」
「意外?」
「もっと気持ちよく全部ばらまくかと思った」
桐生は少しだけ眉を上げた。
「僕は暴きたいんじゃない。埋まる前に形にしたいだけだ」
「同じだよ、だいぶ」
「違うよ。違うつもりでいる」
その“つもりでいる”が、妙に誠実で腹が立つ。
「なあ」
僕は言った。
「お前、あの古い相談箱の投書、どこで見つけた」
「図書準備室」
「全部か」
「いや。一枚だけ欠けてた」
桐生は鞄からコピーを一枚だけ出した。破れた紙の残り半分。そこにはこうあった。
『待っているあいだに、終わってしまった。見ているだけの人が、いちばん嫌い』
僕はその場で、呼吸の仕方を少し忘れた。
「……これ、出すな」
「出してない」
「これからも出すな」
「理由は?」
「本人がまだ立ててない」
桐生はしばらく僕を見ていたが、やがてコピーを引っこめた。
「君、やっぱり、あの子のことになると甘いね」
「知ってる」
「じゃあ、君自身はどうなんだ」
「何が」
「支えていたことで、必要とされる側にいたんじゃないの」
今度は、返せなかった。図星だったからだ。




