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第11話 主人公失格

その週、ひかりは三つの“事件”を見逃した。

一つ目は、購買の釣り銭が合わなくなった件。二つ目は、部室の窓が割れた件。三つ目は、進路希望調査の用紙が一枚なくなった件。どれも本気で騒ぐほどではない。けれど前のひかりなら、確実に立ち上がっていた。

「一ノ瀬、今日は行かないの?」

 と、クラスのやつに半ば冗談で聞かれたとき、ひかりは本から目を上げないまま『今日は主人公休業日』と答えた。

笑える言い方のはずなのに、誰も笑わなかった。

結局、釣り銭は店番の入力ミス、窓は中庭からの誤球、進路希望調査は先生の机の下から出てきた。僕が動けば解ける。そういう確認だけが、静かに積み重なっていく。

それがたぶん、いちばんきつかった。解けることと、前みたいに戻れることは別だからだ。

一ノ瀬ひかりは主人公ではなくなった。

学校を休みはしない。けれど、事件めいたことが起きても立ち上がらない。廊下で口論があっても、本を読んだまま視線すら上げない。

教室の窓が割れた日もそうだった。犯人探しが始まり、去年も問題を起こした一年が疑われた。前のひかりなら真っ先に口を挟んでいたはずだ。だが、あいつは窓の外を見ているだけだった。

結局、僕が動いた。ボールの跡の角度と、校庭の部活の位置から、外のサッカー部じゃなく中庭で自撮りをしていた二年がぶつけたと分かった。解決自体は難しくなかった。

難しかったのは、そのあとだった。

放課後、ひかりは屋上にいた。冬の風のなかで、制服の裾だけが揺れている。

「お前、最近ほんとに何もしないな」

「できないから」

「一話で終わりそうな落ち込み方やめろよ」

「うるさいな」

振り返った顔は、思ったよりも普通だった。普通であることが、余計にしんどい。

「湊がやれば足りるじゃん」

「足りない」

「足りてたよ。今週の窓だって、ちゃんと」

「そういう話じゃない」

僕は手すりにもたれて、息を吐いた。

「お前が前に出て、俺が後ろを整える。それで回ってた。たしかに、俺はお前を支えてた」

「だったら」

「でも、それだけじゃない」

ひかりが黙る。

「俺も、お前に依存してた」

口にすると、思ったより簡単だった。

「お前が先に踏みこむから、俺は“あとを拾うだけ”で済んだ。自分で最初の一歩を決めなくてよかった。必要とされる位置にいられた。だから、黙ってた」

「……最低」

「知ってる」

「私だけじゃなかったんだ」

「うん。だから、仕切り直しだ」

「依存をやめる?」

「やめる」

「やめられると思う?」

「たぶん無理」

「じゃあどうするの」

「共犯になる」

ひかりが、初めて少しだけ笑った。

「言い方」

「でも近いだろ。お前ひとりの主人公ごっこでも、俺ひとりの後始末でもない。最初から二人でやる」

「……今さら」

「今さらだよ」

風が強く吹いて、フェンスが細かく鳴る。ひかりはしばらく遠くの住宅街を見ていた。

「私、ずっと“誰も来なかった”ほうの人間だと思ってた」

「うん」

「だから、自分で行くしかないって思ってた」

「それで主人公をやってた」

「たぶん」

「じゃあ、これからは」

「……分かんない」

その答えが、逆によかった。今ここで綺麗なことを言われたら、たぶん壊れていた。

そのとき、僕のスマホが鳴った。秋月からのメッセージだった。

『桐生先輩、明日の全校集会で何かするつもりかもしれない。相談箱の原本、持ち出されてる』

僕は画面を見せた。ひかりは少し長く黙ったあと、視線を落とす。

「まだ、怖い」

「知ってる」

「たぶん、明日も怖い」

「うん」

「もし行かなかったら」

「それでもいい」

「嘘つき」

「半分な」

「半分は?」

「行ってほしい」

ひかりはそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。

「そういうの、ずるい」

「待てって言われたから待ってたんだよ」

「待たれてるのも、けっこうしんどい」

「じゃあどうしろって」

「あと一押し」

「注文が多いな」

ひかりは手すりにもたれたまま、小さく言った。

「ラノベの主人公なら、こんなとき、どうするんだろう」

「さあな。でも」

「なに?」

「一ノ瀬ひかりなら、前へ進む」

ひかりはそこで、少しだけ目を見開いた。

「……それ、ずるい」

「知ってる」

それだけ言って、僕は先に屋上を出た。助けるのではなく、選ばせるために。それがたぶん、あと一押しというやつだった。

屋上から降りたあと、僕は秋月と榊原にメッセージを送った。

『明日の集会、たぶん桐生が動く。相談箱の扱いをそこで決められるとまずい』

返事は早かった。秋月は保管記録を持つと言い、榊原は学生会として介入の名目を作ると言った。美園も推薦の経緯メモを出せると返してきた。いつの間にか、僕たちの周りには“拾う人”が増えていたのだと思う。

ただ、一番来てほしい相手からは、何も来なかった。

夜、ひかりからようやく短いメッセージが届いたのは零時近かった。

『怖いまま行っても、ださい?』

僕は少し考えてから返した。

『むしろ、そのほうが今のお前っぽい』

既読がつくまでの数分が妙に長かった。やがて返ってきたのは、一言だけ。

『了解』

それが立ち直りの合図かどうかは分からない。でも、少なくとも、完全に座り込んだままではいない。そのことだけが、少し救いだった。

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