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第12話 それでも主人公ならそうした

全校集会の朝、空はひどく青かった。

こういう日に限って、嫌なことは起きる。僕は体育館へ向かう廊下で、榊原から受け取ったメモをもう一度見返していた。相談箱の保管記録は秋月。推薦候補の修正経緯は美園。放送室の鍵は森下が押さえる。教師側が強引に打ち切ろうとしたら、榊原が学生会名義で止める。

準備だけはしてきた。してきたが、肝心の一人がまだ来ていない。

「一ノ瀬さん、来ますかね」

 秋月が小さく訊く。

「来る」

 と、僕は答えた。

「来てほしい、の間違いじゃなくて?」

「……半分はそう」

体育館の入口で、榊原が腕時計を見た。

「始まる。桐生の姿は?」

「さっき放送卓のほうへ」

 森下が答える。

「先生たちは、まだ気づいてない」

嫌な予感しかしなかった。しかも、その嫌な予感はだいたい当たる。

開会の挨拶が始まるより先に、スピーカーが不快なノイズを吐いた。

壇上脇の放送卓に立っていたのは、桐生蒼太だった。学校新聞の腕章を外しもしないで、手元に特別号の束と、薄茶色の封筒をいくつか置いている。

「この学校は、匿名の声を何度も埋めてきました」

拡声された声に、体育館全体がざわついた。

教師が動く。だが、桐生はその一歩先で紙を高く掲げる。

「相談箱は形だけ。推薦は都合で書き換わる。放送は“配慮”の名目で握りつぶされる。助けを求めた声が、面倒になる前に処理される。その繰り返しを、僕たちは見てきました」

何人かの教師が『放送を切れ!』と叫んだ。森下が放送卓に近づくが、桐生は原本の一つを掲げたまま下がらない。

「切ってもいいです。どうせ切るなら、その手つきごと生徒に見せればいい」

最悪だ。やり方が最悪なのに、言っていることの半分が当たっているせいで、場が簡単には切れない。

そして桐生は、最後の一線を踏みかけた。

「そして、一ノ瀬ひかり。きみが匿名の紙にあれほど反応する理由も、この中の一枚に——」

「それ、やるなら最後まで責任取ってください」

体育館後方から飛んだ声に、空気が止まった。

振り向かなくても分かった。ひかりだ。

遅れて入ってきた制服の裾が、通路の真ん中で揺れる。前みたいな、何も迷っていない足取りじゃない。躊躇はある。見ているだけで分かるくらいある。それでも、止まらずに前へ来る。

僕は無意識に、その半歩後ろへ回っていた。後ろというより、横に近い位置だった。

「来ると思った」

 桐生が言う。

「来ないほうが、きれいな展開だったかもしれないけど」

 ひかりは壇下で立ち止まった。

「今日は、たぶん違う」

体育館はしんと静まり返っていた。先生も、生徒も、誰も動けない。みんな、次に何が言われるかを待っている。

「あなたの言ってること、半分は正しい」

 ひかりが言った。

「埋められた声はあった。助けを求めたのに、誰もちゃんと受け取らなかった紙もあった。学校が“面倒になる前に処理”してきたこともある」

桐生は眉ひとつ動かさない。

「じゃあ」

「でも、それを今ここでばらまいたら、今度はあなたが武器にしてるだけでしょう」

その一言で、体育館の空気がまた変わった。

「武器?」

「そう。助けてほしくて書かれた紙を、正しさの証拠として振り回してる」

「埋めるよりはましだ」

「どっちも嫌だよ」

声が少しだけ震えていた。前のひかりなら、その震えを勢いで押し切った。今は違う。震えていることが、そのまま見える。

「見せるなら、責任のある形で見せる。読ませるなら、当人がもう一回傷つかない手順で読ませる。匿名の声が必要なのは、“誰にも見つからずに助けを求めたいとき”であって、“誰かを殴るため”じゃない」

桐生の手元で、紙が一枚だけ揺れた。

「じゃあどうする」

 彼は初めて少しだけ感情をにじませた。

「また校長室に持っていって、“検討します”で終わらせるのか」

「終わらせない」

今度は僕が前へ出る番だった。

「原本はこの場で生徒会へ預ける。校長と外部カウンセラー立ち会いで、相談箱の扱いを検証する。推薦の判断過程も、記録を残して再点検する。放送部の私信処理もルール化する。全部、議事録にして、生徒に公開する」

「口で言うのは簡単だ」

「簡単じゃない」

 僕は言った。

「簡単じゃないから、今ここで“全部ばらまいて終わり”のほうが楽なんだよ。でも、楽なほうを選んだら、次もまた同じ紙が出る」

榊原が体育館脇から前へ出てきた。

「学生会が引き受けます」

 副会長のよく通る声が、場を縫うように入る。

「相談箱の記録管理、推薦判断の監査、匿名相談の第三者窓口設置、全部議案化する。面倒だからこそ、形にする」

「榊原」

 教師の一人が咎める。

「今は集会中だぞ」

「だからです」

 榊原は表情ひとつ変えない。

「今ここで“後で”にしたら、また埋まる」

後ろから、秋月が保管記録を持ってきた。美園は推薦候補の下書きと修正経緯のメモを、森下は放送部で握りつぶされてきたカードの運用記録を抱えている。

いつの間にか、僕たちだけの話ではなくなっていた。

桐生はそれを見て、ゆっくり息を吐いた。

「ずるいな」

「何が」

 ひかりが訊く。

「君たち、ちゃんと“続き”を出してくる。僕が暴いた穴に、都合のいい土をかぶせるんじゃなくて、そのまま工事しようとする」

「工事、好きそうでしょ。新聞部」

「好きじゃないよ。面倒だから」

そこで初めて、桐生が少しだけ笑った。負けを認める笑いではない。ただ、ここで無理に紙を振り回しても、もう“埋める学校”対“暴く新聞部”の構図には戻れないと分かった顔だった。

それでも彼は、最後の問いだけは投げた。

「一ノ瀬。きみは、自分が支えられていたと知ったはずだろ」

「知ったよ」

「それでも、まだ主人公をやるのか」

体育館の全員が、その答えを待った。

ひかりは一度だけ目を伏せた。たぶん、息の整え方を考えたんだと思う。

「前は、違った」

 やがて言う。

「誰も来なかったから、自分で行くしかないって思ってた。だから、主人公みたいに振る舞えば壊れない気がした」

教師たちがざわめく。僕だけが、その一文の重さを知っていた。全部は言っていない。言っていないけれど、ほとんど十分だった。

「でも今は、それだけじゃない」

 ひかりは僕を見た。次に秋月、美園、森下、榊原を見る。

「一人で立ってたわけじゃなかったって分かった。支えられてたし、私も誰かに寄りかかってた。だから、前より少しだけ、ださい形になる」

ださい、という言い方に、どこかの緊張が少し緩んだ。

「ラノベの主人公ならそうした」

その台詞は、今までみたいな勢いのある呪文じゃなかった。息を整えたあとの、小さな選択みたいに聞こえた。

「……でも今回は、私もそうしたい」

その瞬間、僕はたぶん、初めてあいつのその台詞をまともに受け取った。主人公だからそうする、ではなく。そうしたいから、主人公の言葉を借りる。順番が変わったのだ。

桐生はしばらく黙っていたが、やがて手にしていた原本を下ろした。

「了解。今日は、そこまでにする」

「今日は、って付けるんだ」

 ひかりが言う。

「新聞部だからね」

ようやく、体育館の空気が動き出した。先生たちが集会の中止を告げ、生徒はざわめいたまま解散する。問題は何も片づいていない。けれど、少なくとも、踏みつけられた紙がそのまま床に散ることはなかった。

その日の放課後、相談箱の原本は生徒会室で正式に封をされた。校長、榊原、桐生、秋月、外部カウンセラー。立会人の名前を全部書きこんだ封筒が、ようやく“誰の責任でもない紙”から、“誰かが責任を持って扱う紙”に変わる。

「面倒ですね」

 ひかりが言う。

「お前が一番嫌いなタイプの面倒だろ」

「うん。でも、たぶん必要」

夕方の教室に戻ると、誰もいない窓際に西日だけが残っていた。ひかりが僕の机を軽く叩く。

「湊」

「なに」

「仕切り直し、しよう」

「今さら?」

「今さら。前みたいに、私が前に出て、お前が黙って後始末するの、なし」

「じゃあ分担は」

「共犯」

「雑だな」

「でも、前より正しい」

たぶん、その通りだった。

前は依存だった。僕はひかりが先に踏みこむことに甘え、ひかりは僕が拾うことに甘えていた。名前を変えたから全部変わるわけじゃない。それでも、自覚のある依存は、少しだけ形を変えられる。

「共犯なら、最初から相談しろよ」

「努力目標にしとく」

「低いな」

「主人公、単独行動しがちだから」

「もう単独主人公やめたんだろ」

「だから努力目標」

笑いながらそんなことを言える程度には、今日はちゃんと終わったのだと思う。

数日後、図書室の返却箱に、秋月がまた妙な紙を見つけた。

『購買のパンが毎日一個ずつ消えてます』

「平和だな」

 僕が言うと、ひかりは即座に立ち上がる。

「でも事件だよ」

「そこだけは変わらないな」

「ラノベの主人公ならそうする」

「共犯なら、なおさらだろ」

僕たちはほとんど同時に歩き出した。

結局、何もかもが劇的に変わるわけじゃない。ひかりは相変わらず前へ出るし、僕は相変わらず止めたり拾ったりする。ただ、そのことを互いに知ったままやるようになっただけだ。

でも、たぶんその違いは大きい。

依存から共犯へ。

その名前を覚えたぶんだけ、僕たちは少しだけ、同じ方向を向けるようになったのだから。

——その日の夜。

僕の家のポストに、差出人不明の封筒が入っていた。

中には一枚の写真。ひどく古い、色の褪せた校舎の渡り廊下。裏には、見覚えのある筆跡で一行だけ書かれている。

『次は、校外で。見ているだけの人が、いちばん嫌い』

写真の隅には、小さく学校名が写っていた。

神波中学校旧校舎。

ひかりが、まだ何も話していない場所だった。

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