第12話 それでも主人公ならそうした
全校集会の朝、空はひどく青かった。
こういう日に限って、嫌なことは起きる。僕は体育館へ向かう廊下で、榊原から受け取ったメモをもう一度見返していた。相談箱の保管記録は秋月。推薦候補の修正経緯は美園。放送室の鍵は森下が押さえる。教師側が強引に打ち切ろうとしたら、榊原が学生会名義で止める。
準備だけはしてきた。してきたが、肝心の一人がまだ来ていない。
「一ノ瀬さん、来ますかね」
秋月が小さく訊く。
「来る」
と、僕は答えた。
「来てほしい、の間違いじゃなくて?」
「……半分はそう」
体育館の入口で、榊原が腕時計を見た。
「始まる。桐生の姿は?」
「さっき放送卓のほうへ」
森下が答える。
「先生たちは、まだ気づいてない」
嫌な予感しかしなかった。しかも、その嫌な予感はだいたい当たる。
◆
開会の挨拶が始まるより先に、スピーカーが不快なノイズを吐いた。
壇上脇の放送卓に立っていたのは、桐生蒼太だった。学校新聞の腕章を外しもしないで、手元に特別号の束と、薄茶色の封筒をいくつか置いている。
「この学校は、匿名の声を何度も埋めてきました」
拡声された声に、体育館全体がざわついた。
教師が動く。だが、桐生はその一歩先で紙を高く掲げる。
「相談箱は形だけ。推薦は都合で書き換わる。放送は“配慮”の名目で握りつぶされる。助けを求めた声が、面倒になる前に処理される。その繰り返しを、僕たちは見てきました」
何人かの教師が『放送を切れ!』と叫んだ。森下が放送卓に近づくが、桐生は原本の一つを掲げたまま下がらない。
「切ってもいいです。どうせ切るなら、その手つきごと生徒に見せればいい」
最悪だ。やり方が最悪なのに、言っていることの半分が当たっているせいで、場が簡単には切れない。
そして桐生は、最後の一線を踏みかけた。
「そして、一ノ瀬ひかり。きみが匿名の紙にあれほど反応する理由も、この中の一枚に——」
「それ、やるなら最後まで責任取ってください」
体育館後方から飛んだ声に、空気が止まった。
振り向かなくても分かった。ひかりだ。
遅れて入ってきた制服の裾が、通路の真ん中で揺れる。前みたいな、何も迷っていない足取りじゃない。躊躇はある。見ているだけで分かるくらいある。それでも、止まらずに前へ来る。
僕は無意識に、その半歩後ろへ回っていた。後ろというより、横に近い位置だった。
「来ると思った」
桐生が言う。
「来ないほうが、きれいな展開だったかもしれないけど」
ひかりは壇下で立ち止まった。
「今日は、たぶん違う」
体育館はしんと静まり返っていた。先生も、生徒も、誰も動けない。みんな、次に何が言われるかを待っている。
「あなたの言ってること、半分は正しい」
ひかりが言った。
「埋められた声はあった。助けを求めたのに、誰もちゃんと受け取らなかった紙もあった。学校が“面倒になる前に処理”してきたこともある」
桐生は眉ひとつ動かさない。
「じゃあ」
「でも、それを今ここでばらまいたら、今度はあなたが武器にしてるだけでしょう」
その一言で、体育館の空気がまた変わった。
「武器?」
「そう。助けてほしくて書かれた紙を、正しさの証拠として振り回してる」
「埋めるよりはましだ」
「どっちも嫌だよ」
声が少しだけ震えていた。前のひかりなら、その震えを勢いで押し切った。今は違う。震えていることが、そのまま見える。
「見せるなら、責任のある形で見せる。読ませるなら、当人がもう一回傷つかない手順で読ませる。匿名の声が必要なのは、“誰にも見つからずに助けを求めたいとき”であって、“誰かを殴るため”じゃない」
桐生の手元で、紙が一枚だけ揺れた。
「じゃあどうする」
彼は初めて少しだけ感情をにじませた。
「また校長室に持っていって、“検討します”で終わらせるのか」
「終わらせない」
今度は僕が前へ出る番だった。
「原本はこの場で生徒会へ預ける。校長と外部カウンセラー立ち会いで、相談箱の扱いを検証する。推薦の判断過程も、記録を残して再点検する。放送部の私信処理もルール化する。全部、議事録にして、生徒に公開する」
「口で言うのは簡単だ」
「簡単じゃない」
僕は言った。
「簡単じゃないから、今ここで“全部ばらまいて終わり”のほうが楽なんだよ。でも、楽なほうを選んだら、次もまた同じ紙が出る」
榊原が体育館脇から前へ出てきた。
「学生会が引き受けます」
副会長のよく通る声が、場を縫うように入る。
「相談箱の記録管理、推薦判断の監査、匿名相談の第三者窓口設置、全部議案化する。面倒だからこそ、形にする」
「榊原」
教師の一人が咎める。
「今は集会中だぞ」
「だからです」
榊原は表情ひとつ変えない。
「今ここで“後で”にしたら、また埋まる」
後ろから、秋月が保管記録を持ってきた。美園は推薦候補の下書きと修正経緯のメモを、森下は放送部で握りつぶされてきたカードの運用記録を抱えている。
いつの間にか、僕たちだけの話ではなくなっていた。
桐生はそれを見て、ゆっくり息を吐いた。
「ずるいな」
「何が」
ひかりが訊く。
「君たち、ちゃんと“続き”を出してくる。僕が暴いた穴に、都合のいい土をかぶせるんじゃなくて、そのまま工事しようとする」
「工事、好きそうでしょ。新聞部」
「好きじゃないよ。面倒だから」
そこで初めて、桐生が少しだけ笑った。負けを認める笑いではない。ただ、ここで無理に紙を振り回しても、もう“埋める学校”対“暴く新聞部”の構図には戻れないと分かった顔だった。
それでも彼は、最後の問いだけは投げた。
「一ノ瀬。きみは、自分が支えられていたと知ったはずだろ」
「知ったよ」
「それでも、まだ主人公をやるのか」
体育館の全員が、その答えを待った。
ひかりは一度だけ目を伏せた。たぶん、息の整え方を考えたんだと思う。
「前は、違った」
やがて言う。
「誰も来なかったから、自分で行くしかないって思ってた。だから、主人公みたいに振る舞えば壊れない気がした」
教師たちがざわめく。僕だけが、その一文の重さを知っていた。全部は言っていない。言っていないけれど、ほとんど十分だった。
「でも今は、それだけじゃない」
ひかりは僕を見た。次に秋月、美園、森下、榊原を見る。
「一人で立ってたわけじゃなかったって分かった。支えられてたし、私も誰かに寄りかかってた。だから、前より少しだけ、ださい形になる」
ださい、という言い方に、どこかの緊張が少し緩んだ。
「ラノベの主人公ならそうした」
その台詞は、今までみたいな勢いのある呪文じゃなかった。息を整えたあとの、小さな選択みたいに聞こえた。
「……でも今回は、私もそうしたい」
その瞬間、僕はたぶん、初めてあいつのその台詞をまともに受け取った。主人公だからそうする、ではなく。そうしたいから、主人公の言葉を借りる。順番が変わったのだ。
桐生はしばらく黙っていたが、やがて手にしていた原本を下ろした。
「了解。今日は、そこまでにする」
「今日は、って付けるんだ」
ひかりが言う。
「新聞部だからね」
ようやく、体育館の空気が動き出した。先生たちが集会の中止を告げ、生徒はざわめいたまま解散する。問題は何も片づいていない。けれど、少なくとも、踏みつけられた紙がそのまま床に散ることはなかった。
◆
その日の放課後、相談箱の原本は生徒会室で正式に封をされた。校長、榊原、桐生、秋月、外部カウンセラー。立会人の名前を全部書きこんだ封筒が、ようやく“誰の責任でもない紙”から、“誰かが責任を持って扱う紙”に変わる。
「面倒ですね」
ひかりが言う。
「お前が一番嫌いなタイプの面倒だろ」
「うん。でも、たぶん必要」
夕方の教室に戻ると、誰もいない窓際に西日だけが残っていた。ひかりが僕の机を軽く叩く。
「湊」
「なに」
「仕切り直し、しよう」
「今さら?」
「今さら。前みたいに、私が前に出て、お前が黙って後始末するの、なし」
「じゃあ分担は」
「共犯」
「雑だな」
「でも、前より正しい」
たぶん、その通りだった。
前は依存だった。僕はひかりが先に踏みこむことに甘え、ひかりは僕が拾うことに甘えていた。名前を変えたから全部変わるわけじゃない。それでも、自覚のある依存は、少しだけ形を変えられる。
「共犯なら、最初から相談しろよ」
「努力目標にしとく」
「低いな」
「主人公、単独行動しがちだから」
「もう単独主人公やめたんだろ」
「だから努力目標」
笑いながらそんなことを言える程度には、今日はちゃんと終わったのだと思う。
◆
数日後、図書室の返却箱に、秋月がまた妙な紙を見つけた。
『購買のパンが毎日一個ずつ消えてます』
「平和だな」
僕が言うと、ひかりは即座に立ち上がる。
「でも事件だよ」
「そこだけは変わらないな」
「ラノベの主人公ならそうする」
「共犯なら、なおさらだろ」
僕たちはほとんど同時に歩き出した。
結局、何もかもが劇的に変わるわけじゃない。ひかりは相変わらず前へ出るし、僕は相変わらず止めたり拾ったりする。ただ、そのことを互いに知ったままやるようになっただけだ。
でも、たぶんその違いは大きい。
依存から共犯へ。
その名前を覚えたぶんだけ、僕たちは少しだけ、同じ方向を向けるようになったのだから。
◆
——その日の夜。
僕の家のポストに、差出人不明の封筒が入っていた。
中には一枚の写真。ひどく古い、色の褪せた校舎の渡り廊下。裏には、見覚えのある筆跡で一行だけ書かれている。
『次は、校外で。見ているだけの人が、いちばん嫌い』
写真の隅には、小さく学校名が写っていた。
神波中学校旧校舎。
ひかりが、まだ何も話していない場所だった。




