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第2章 1話 書きかけの最善

六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴るより少し前、生徒会室の前の廊下は妙にざわついていた。

 立会演説会を翌日に控え、原稿の最終提出が今日だったからだ。候補者たちは最後の推敲に追われ、推薦人は段取り表を握りしめ、放送委員はマイクテストの時間を気にして早足になっていた。


「こういうときの学校って、やけに物語っぽいよな」

 僕がそう言うと、隣を歩く一ノ瀬ひかりはすぐに首を振った。

「ちがう。物語っぽいんじゃない。物語は、こういう空気を真似してるだけ」

「言い切るね」

「だって、ラノベの主人公ならそうする」


 こいつはそういうやつだ。比喩でもなんでもなく、自分を本気で“主人公”の側に置いている。

 その危うさを知っているから、僕はたいてい一歩後ろにいる。踏み込むひかりの横で、誰がどこへ落ちるかを考える役が必要だからだ。


 生徒会室の前で、演説候補の一人、二年の柏崎晴人が青い顔で紙束を握っていた。

「真壁、見てくれよこれ……」

 差し出された原稿の二枚目には、見慣れない一文が赤いペンで追記されている。

『規律より結果を重視する学校へ』

 柏崎が穏健派で売っていることを考えれば、致命的だった。

「僕、こんなの書いてないんです」

 柏崎の推薦人である一年の榊原蓮が、ほとんど泣きそうな顔で言った。

「さっきまで僕が順番確認してて、それで少し目を離したら……。これ、読んだら絶対まずいです」

 ひかりは原稿を受け取ると、紙の角を指でなぞった。

「折り目が変」

「は?」

「一枚目と三枚目は中央で折ってあるのに、二枚目だけ右寄りで二回折られてる。途中で差し替えた紙の折り方だよ」


 そう言って、ひかりは生徒会室の扉へ歩き出した。

 僕は反射的に腕をつかんだ。

「待て。候補者と推薦人と放送委員、最低でも三方向に火が飛ぶ」

「飛ばないようにするのが、お前の役目でしょ」

「最初からそう決めるな」

「ラノベの主人公ならそうする」

「そして主人公の幼馴染が胃を痛める」

「そこは認めるんだ」


 僕たちが生徒会室に入ると、候補者の原稿を管理していた書記の三年生、放送委員長、立会演説の司会役、そして候補者たちが一斉に顔を上げた。

 空気は悪かった。誰もが、自分が疑われるのだけは避けたい顔をしていた。

「柏崎の原稿、細工されてる」

 ひかりは遠慮なく言った。

「今ならまだ、誰がやったかを“事故”で終わらせる余地がある」

「一ノ瀬、言い方」

 僕が小声で止めると、ひかりは肩をすくめた。

「じゃあ訂正する。今なら、事件になる前に止められる」


 放送委員長の笹森が眉をひそめた。

「そんなの、柏崎くん本人が書き直しただけじゃないの?」

「本人の筆圧じゃない」

 ひかりは即答した。

「あと紙の端。ホチキスを外した跡がある」

 僕は原稿を受け取り、順番表に目を走らせた。候補者は四人。提出後に原稿へ触れた可能性があるのは、順番確認のために受け取った榊原、マイク位置合わせで預かった放送委員、演説時間調整をした司会役、そのくらいだ。


「榊原、原稿を並べたのは何時?」

「四時十分くらいです」

「そのあと柏崎の原稿は?」

「司会の西崎先輩に渡して、そのあと放送卓へ……」

 ひかりがすぐに振り返る。

「西崎先輩。あなた、並び順を変えた?」

「変えてない。けど、柏崎くんのだけ一回読み直した。演説時間が長かったから」

「そこで抜いた?」

「抜いてない」


 会話はすぐに行き詰まった。だから僕は、正面から犯人を探すのをやめた。

 マイクテストの記録表を見る。候補者が一人ずつ壇上へ立った時刻がある。柏崎だけ、他の候補より二分長い。

「なんで柏崎だけ二分余計に?」

 僕が聞くと、笹森は答えた。

「原稿の二枚目が見つからなくて、探したんだよ。結局、演台の下に落ちてて」

「その時点で、差し替えの余地がある」

 ひかりが言う。

 僕は床の構造を思い出した。演台の足元は狭く、しゃがみ込めば外から見えにくい。しかもその時間、みんなはマイクのハウリングに気を取られていたはずだ。


「笹森先輩。演台の下を探したの、誰?」

「……榊原くん」

 室内の視線が、一斉に榊原へ向いた。

 榊原は青ざめたまま、首を振った。

「僕じゃないです、絶対に。僕、柏崎先輩が変なこと言う人じゃないって知ってます」

 その声の必死さは本物だった。

 だからこそ、ひかりは彼ではなく別の方向を見る。

「でも、お前は“誰が困るか”を知ってた」

「え」

「候補者じゃなく、推薦人だよ」

 ひかりは司会役の西崎へ向き直った。

「柏崎先輩が失言したら、責任をかぶるのは誰?」

 西崎は一瞬だけ目をそらした。

「……一年の榊原くん」

「そう。去年、あなたが同じ立場で失敗して、ずっと笑われてたみたいにね」


 その瞬間、空気が変わった。

 西崎の手の中のクリップボードが、かすかに鳴った。

「違う。ただ、あいつに分からせたかっただけだよ」

 吐き出すように西崎が言う。

「推薦人って、きれいごとだけで立てる場所じゃない。誰かを前に出すなら、自分も笑われる覚悟がいるって」

「だからって、候補者の原稿をいじるのか」

 僕が言うと、西崎は苦く笑った。

「ちょっと焦らせるだけのつもりだった。こんな大事になるとは思わなかった」


 ひかりはすぐに断罪しなかった。珍しく、一拍だけ置いた。

「……柏崎先輩が壇上で転ぶかもしれないなんて、考えなかった?」

「考えたよ。でも、それでも」

「それでも、誰かに去年の自分をなぞらせたかった?」

 西崎は答えなかった。


 結局、話は生徒会長と顧問まで持ち上がった。

 僕はその場で、処分の言葉より先に段取りを詰めた。

「明日の演説は、原稿持ち込みをやめて全員データ投影にする。推薦人の立ち位置もずらす。西崎先輩は司会から外れて、進行補助へ」

「真壁くん」

 笹森が呆れ半分で言う。

「君、そういうのいつも先に考えるね」

「事件って、真相が出たあとで形を決めないと、ただ残るだけなので」


 帰り道、ひかりが僕の肩越しにノートを覗き込んだ。

「また書いてる」

「見なくていい」

「タイトルだけ」

「駄目」

 それでもひかりは勝手に読んだ。

 ページの上には、小さくこう書いてあった。

『最善の終わり方』

 その下に、僕は一行だけ足した。

『失言を防ぐだけじゃ足りない。明日、誰も笑いものにならない形まで準備する。』

「へえ」

 ひかりが言う。

「お前、もう後始末係じゃないじゃん」

「違う」

「じゃあなに」

「……結末の、設計」

 言ってから、自分で少し驚いた。

 ひかりは妙に満足そうに笑った。

「いいじゃん、それ」

 その時、校門のそばで待っていた榊原が、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。僕、ほんとに、終わったと思ってたんです」

 その目は、ひかりよりむしろ僕へ向いていた。

 感謝されることに、胸のどこかがわずかに温まる。

 その温度を、僕はまだ危険だと思っていなかった。

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