第8話 返却されない鍵
雨の日の図書室は、校舎の中でも少し別の場所になる。
濡れた傘の匂いと、紙の乾いた匂いが混ざって、声がみんな半分くらい小さくなる。そんな午後、新聞部の桐生蒼太が、司書の先生に古い校内新聞の綴じ冊子を借りていた。
「また取材ですか」
秋月が尋ねると、桐生は笑いもしないで答えた。
「取材でもある。確認でもある」
「何の」
「見過ごされた声が、どう処理されてきたか」
嫌な言い方だ。悪意はないのに、相手が嫌がる地点を正確に踏む。
ひかりは少し離れた棚の前で、露骨に嫌そうな顔をした。
「新聞部って、なんでそういう言い方しかできないんですか」
「一ノ瀬さんにだけは言われたくない」
返しが早い。たぶん、この二人は似た種類のものを嫌いながら、似た種類のものを持っている。
そのときは、ただ相性が悪いだけだと思っていた。
まさか、桐生が古い相談箱の投書と、ひかりの靴箱に入る匿名の紙を、同じ線で見ているとは知らなかった。
図書準備室の鍵が返ってこない、と秋月が言い出したのは、雨の強い放課後だった。
「閉室の記録はあるのに、鍵だけない」
「借りた人は?」
「新聞部の桐生先輩になってる。でも、本人はすぐ返したって」
桐生蒼太。学校新聞の編集長で、いつも静かな目で人の話を聞いている三年だ。文化祭以降、ひかりのことをやたらと取材したがっていた。
「嫌な予感しかしない」
僕が言うと、ひかりは図書準備室の鍵穴をのぞきこみながら答える。
「嫌な予感はだいたい当たる」
「胸張るな」
準備室を開けると、中は古い冊子と段ボールだらけだった。学校新聞のバックナンバー、生徒会議事録、卒業アルバム、そして、鍵付きの小さな保管箱。
「相談箱」
秋月が箱のラベルを読む。
「前の制度だね。今はもう使ってない」
「使ってない相談箱を、なんでわざわざ桐生先輩が?」
「記事になるから」
ひかりが言う。
「埋もれた声、とか好きそう」
「偏見だな」
「でも当たってそう」
箱は半分開いていた。誰かが先に触っている。中には投書の束があり、一枚だけ封の破れた紙があった。端が欠けて、全文は読めない。
『……て。見ているだけの人が、いちばん嫌い』
ひかりの指が、その紙に触れたまま止まった。
僕は何も言わなかった。秋月が気づいて、そっと訊く。
「知ってる文面?」
「知らない」
嘘だ、と分かるくらい早い返事だった。
結局、鍵そのものは単純な管理ミスで、桐生が返したあと、司書補助の棚の上に置きっぱなしになっていたことが分かった。それ自体は事件とも言えない。けれど、桐生が準備室で何を見ていたのかは別だ。
その日の帰り、校舎裏で本人を見つけた。桐生は濡れた傘を閉じながら、あっさり言った。
「学校の過去を調べてるんだ。匿名相談が、どう扱われてきたか」
「なんでそんなものを」
「匿名だから本気じゃない、って捨てられた声が、いちばん後を引くから」
「記事にするため?」
「半分は。もう半分は、確認」
桐生の目が、ひかりを真っすぐ見る。
「一ノ瀬さんは、匿名の紙に過剰なくらい反応するよね。理由、あるんじゃない?」
「取材ですか」
ひかりは笑った。
あいつがほんとうに嫌なときだけする、薄い笑い方だった。
「半分は」
桐生も笑わない。
「残り半分は?」
「確認。昔の相談箱の文面と、最近きみの靴箱に入ってる紙の文体が似てる」
僕の背中に冷たいものが走った。ひかりは視線を逸らさないまま言う。
「気持ち悪いですね」
「かもしれない。でも、関係があるなら知る価値はある」
「記事にする価値、でしょ」
「それもある」
やっぱり嫌なやつだ。悪意で言っているわけじゃないところが、なお悪い。
「やめろ」
僕が言う。
「それ以上掘るな」
「君が止めるんだ」
桐生が僕を見る。
「やっぱりそういう役なんだね」
「何が言いたい」
「一ノ瀬さんが前へ出るのを、君が整えてる。前からそう見えてた」
図星を突かれると、人は腹が立つ。桐生の言葉は、いつもそこを外さない。
「記事にする気か」
「必要なら」
「必要じゃない」
「じゃあ証明してよ。今ある違和感が、ただの思い過ごしだって」
ひかりがそのとき初めて口を開いた。
「ラノベの主人公ならそうする」
「何が」
僕が思わず聞き返す。
「踏みこまれたくないところほど、自分で先に入る」
「やめろ」
「やめない。聞かれるなら、自分のタイミングで聞かれるほうがまし」
その返しは、いつもより危うかった。
「今はやめろ」
僕はもう一度言う。
「こいつに餌をやるな」
「餌って」
桐生が苦笑する。
「ひどいな、真壁くん」
「ひどいのはあんただろ」
結局、その日はそれ以上何も出なかった。桐生も、今ここで無理に剥がすつもりはないらしい。ただ、帰り際に一言だけ残した。
「相談箱の原本、まだ残ってる。見たいなら、いつでも」
「見ません」
ひかりが即答する。
「そう」
「……今は」
その付け足しを、桐生は聞き逃さなかったと思う。
雨の帰り道、傘の下でひかりはずっと黙っていた。
「さっきの紙」
僕が言う。
「知ってる顔だった」
「……湊」
声が少しだけ低い。
「今は聞かないで」
「分かった」
「ほんとに?」
「聞きたいけど、聞かない」
ひかりは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「それ、ずるい」
「何が」
「聞かないで待つの」
「待てって言ったのはお前だろ」
「そうだけど」
聞けなかったこと自体が、たぶんもう、依存の形をしていた。
◆
その夜、秋月の提案で、僕たちは図書準備室のバックナンバーを少しだけ見せてもらった。
桐生が借りていたのと同じ、古い校内新聞の綴じ冊子。十年近く前の記事の片隅に、匿名相談箱についての短い記述がある。『一部の投書は個別面談へ』『差出人不明につき対応不可』。それだけだ。言葉にすると平凡なのに、並んでいると妙に冷たい。
「対応不可って、便利だね」
ひかりが言う。
「差出人不明だから、来られない。来られないから、放置する」
「学校っぽい」
「うん。学校っぽい」
綴じ込みの一番後ろに、切り離されたコピーが一枚だけ残っていた。印字は薄いが、文体は今のメモとよく似ている。
『見ているだけの人が、いちばん嫌い』
今度は僕も、はっきり見た。
ひかりの顔色が変わる。秋月も息を呑んだが、何も言わない。沈黙の扱いがうまい。
「帰ろう」
僕が言うと、ひかりは反発しなかった。
帰り道、駅前のアーケードで雨宿りをしながら、ひかりがぽつりと呟く。
「“待ってる”って、たぶん一番きつい」
「何が」
「来るかもしれない、って思う時間」
そこでようやく、前のエピソードの問いと繋がった。
でも、今は聞かないと決めた。聞けば、こいつはたぶん壊れ方を早める。そういう確信だけがあった。




