表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

第7話 推薦枠の名前

推薦の話題が出ると、教室は急に静かになる。

誰が狙っているかを口にするのはみっともない。けれど、誰が候補に入るかはみんな気にしている。朝のホームルームで進路指導の話があった日もそうだった。先生は『最後は総合判断です』とだけ言い、肝心の中身は何も言わない。

そのあとの休み時間、教室のあちこちで小さな声が動いた。

「秋月、評定足りてるんだ」

「でも家庭の事情あるんでしょ」

「そういうのって推薦で不利じゃないの」

聞こえよがしではない。むしろ、本人には聞こえないつもりの声だった。そういう声のほうが厄介だ。

ひかりは窓際で本を開いたまま、ページをめくらなかった。

「湊」

「なに」

「“事情があるから無理”って、だいたい事情のない側が言うよね」

「……言うな」

「嫌い」

短い一言だったのに、その語尾だけが妙に硬かった。

二学期の後半になると、学校中が推薦の話でざわつき始める。

誰が有利で、誰が危ないか。教師は口にしないくせに、生徒のほうがよく知っている。

そんな時期に、職員室の前の掲示板に、進学推薦候補者の一覧が一瞬だけ貼り出された。もちろん正式なものではない。すぐに剥がされたし、先生は「下書きが混ざった」と説明した。だが一度見てしまった生徒は多かったし、そこに秋月栞の名前があったことを、僕も見た。

そして翌日には、なかった。代わりに入っていたのは、別の生徒の名前だった。

「下書きの誤記、ではないね」

ひかりが放課後の掲示板を見上げる。

「昨日と今日で修正液の跡が違う」

「そんなの見て分かるのか」

「見てるから」

秋月本人は困ったように笑うだけだった。

「別に、私は」

「別に、で済ませるな」

ひかりの声が少しきつい。秋月は小さく肩をすくめた。

「だって、まだ正式じゃないし」

「だからって、名前が消えていい理由にはならない」

「でも、家のことあるし」

「だから?」

「一ノ瀬さん」

秋月がやんわり制する。

「そこまで怒らなくても」

「怒るよ。怒るでしょ、こういうの」

僕はその横で、ひかりの語尾がやけに強いことに気づいていた。秋月の事情に、自分の何かが重なっているときの声だ。

手がかりになったのは、美園の持っていたコピー用紙だった。職員室横の印刷室で使う再生紙と同じ薄い青みがある。

「昨日、美園さん、印刷室行ったよね」

「……うん」

美園は顔色を変えた。

「誰かに頼まれて、下書きを一枚だけコピーした」

「誰に」

「秋月に見せたかったの。名前、入ってたから。あの子、家庭の事情で諦めるだろうなって思ってたし、せめて先に知ってほしくて」

それ自体は善意だった。問題はそのあとだった。

「コピーを見た誰かが、候補から秋月さんを外すよう教師に圧をかけた」

ひかりが言う。

そのとき、榊原が現れた。

「その言い方は正確じゃない。一ノ瀬」

副会長らしい堅い顔で、彼は掲示板の前に立つ。

「推薦は総合判断だ。事情のある生徒が不利になる構造があるとしても、今の言い方だと教師全体が恣意的に動いたみたいに聞こえる」

「違うの?」

「少なくとも、証拠が足りない」

「じゃあ、あるなら言っていい?」

「あるなら、だ」

この二人は、たぶん相性が悪い。正しいことを言うのに、立っている足場が違いすぎる。

僕は昨日たまたま見たものを思い出していた。進路指導室から出てきた英語教師の指先に、修正液の白がついていたのだ。文化祭準備の資料と違って、あの先生はいつも液体タイプを使う。

そのことをひかりにだけ小声で伝えると、あいつは一瞬だけ僕を見て、それから前を向いた。

「じゃあ、証拠を揃えよう」

進路指導室へ行くと、担当の英語教師は露骨に嫌そうな顔をした。

「下書きが混ざっただけです」

「じゃあ、なぜ秋月さんの名前だけ消えたんですか」

「誤記です」

「昨日は入っていて、今日は消えてるのに?」

「総合判断の変更です」

「何の基準で?」

「それは教師側の判断であって、生徒が踏みこむことでは」

「踏みこみます」

ひかりが言う。

「推薦って、その人の将来の入口でしょう」

「一ノ瀬」

僕はまた止める。

「真正面から殴るな」

「でも」

「相手が教師だと、余計閉じる」

榊原がそこで僕の横へ並んだ。

「副会長として聞きます。正式掲示前の内部資料が露出し、その後に候補名が書き換えられた。生徒への説明責任はあります」

英語教師は明らかに面倒そうだったが、榊原には無視しづらいらしい。観念したように、推薦候補の評価表を机の上へ出した。

そこには、欠席日数と家庭事情に関する備考があり、秋月の欄だけ「推薦後の継続的通学に不安」と書かれていた。

「これ」

ひかりが低く言う。

「家庭の事情を、本人の責任みたいに書いてる」

「進学先へ迷惑をかけないための配慮だ」

教師は言った。

「現実的な判断です」

「現実って言葉で切り捨ててるだけでしょう」

「理想論で学校運営はできません」

空気が張りつめる。

「やめろ」

僕は小声で言う。

「ここで感情ぶつけても、秋月の枠が戻るとは限らない」

「でも」

「取り返すのが先だ」

榊原がひとつ咳払いをした。

「記録は残していますね」

「当然だ」

「では、この備考と判断経緯を学生会側にも提出してください。推薦の公正性に関わるので」

「そこまで」

「必要です」

榊原の圧のかけ方は、ひかりとは別種の怖さがあった。

最終的に出てきたのは、英語教師が“欠席日数の見栄え”を理由に、秋月を候補から外すよう進言した記録だった。家庭の事情を知りながら、推薦後のトラブルを避けたいという、ひどく学校らしい言い分だ。

ひかりはそれを真正面から叩いた。

「問題が起きそうだから外す、で済ませるなら、誰も助からないでしょう」

榊原は何も言わなかった。ただ、僕のほうを一度だけ見た。たぶん気づいている。今の一手が、ひかり一人の直感ではなく、僕の見たものを経由していることに。

結局、候補の再検討がかかり、秋月の名前は正式な推薦審査対象に戻った。確定ではない。それでも、「事情があるから最初から外す」はひとまず止まった。

帰り道、ひかりは秋月から借りた栞を弄びながら言った。

「今日はちょっと、湊がいなかったら詰んでた」

「珍しく素直だな」

「でも、たぶん主人公って、ああいう地味な証拠拾わないんだよね」

「じゃあ何なんだよ、俺」

「裏コマンド」

「雑だな」

「でも、ラノベの主人公ならそうした」

「お前、解決後に自分を励ますみたいに言うよな」

「だって今日、あんまり気持ちよく勝ってないから」

たしかに、そういう回だった。

推薦の再検討が決まったあと、秋月は図書室の奥の机でしばらく動かなかった。

「よかった、でいいのかな」

 僕が言うと、秋月は首を傾げた。

「まだ決まってないから」

「でも、最初から切られるよりは」

「うん。それはそう」

ひかりは棚の影にもたれたまま、本の背表紙を見ていた。黙っているときのあいつは、何を考えているのか分かりにくい。

「秋月さん」

 やがてひかりが言う。

「推薦、欲しい?」

あまりに直球で、僕は思わず顔をしかめた。けれど秋月は、少しだけ考えてから答えた。

「欲しいよ」

「家から出る理由になる?」

「……なる」

その一言で、図書室の空気が少し変わった。

「だったら、なおさら“事情があるから無理”で切るの、最悪だね」

 ひかりが低く言う。

「だって、その事情から出るための切符かもしれないのに」

秋月は笑った。困るときにする笑い方じゃなく、少しだけ助かったときの笑い方だった。

その帰り、榊原が僕だけを呼び止めた。

「一ノ瀬さんは、手続きを嫌うわりに、手続きが人を救う場面も見てきたはずだ」

「そうですね」

「君はそこを繋げている」

「買いかぶりです」

「そうでもない。だが、その位置に甘えるなよ」

言い残して去っていく後ろ姿を見ながら、僕は少しだけ嫌な気分になった。図星を突かれた感じがしたからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ