第7話 推薦枠の名前
推薦の話題が出ると、教室は急に静かになる。
誰が狙っているかを口にするのはみっともない。けれど、誰が候補に入るかはみんな気にしている。朝のホームルームで進路指導の話があった日もそうだった。先生は『最後は総合判断です』とだけ言い、肝心の中身は何も言わない。
そのあとの休み時間、教室のあちこちで小さな声が動いた。
「秋月、評定足りてるんだ」
「でも家庭の事情あるんでしょ」
「そういうのって推薦で不利じゃないの」
聞こえよがしではない。むしろ、本人には聞こえないつもりの声だった。そういう声のほうが厄介だ。
ひかりは窓際で本を開いたまま、ページをめくらなかった。
「湊」
「なに」
「“事情があるから無理”って、だいたい事情のない側が言うよね」
「……言うな」
「嫌い」
短い一言だったのに、その語尾だけが妙に硬かった。
二学期の後半になると、学校中が推薦の話でざわつき始める。
誰が有利で、誰が危ないか。教師は口にしないくせに、生徒のほうがよく知っている。
そんな時期に、職員室の前の掲示板に、進学推薦候補者の一覧が一瞬だけ貼り出された。もちろん正式なものではない。すぐに剥がされたし、先生は「下書きが混ざった」と説明した。だが一度見てしまった生徒は多かったし、そこに秋月栞の名前があったことを、僕も見た。
そして翌日には、なかった。代わりに入っていたのは、別の生徒の名前だった。
「下書きの誤記、ではないね」
ひかりが放課後の掲示板を見上げる。
「昨日と今日で修正液の跡が違う」
「そんなの見て分かるのか」
「見てるから」
秋月本人は困ったように笑うだけだった。
「別に、私は」
「別に、で済ませるな」
ひかりの声が少しきつい。秋月は小さく肩をすくめた。
「だって、まだ正式じゃないし」
「だからって、名前が消えていい理由にはならない」
「でも、家のことあるし」
「だから?」
「一ノ瀬さん」
秋月がやんわり制する。
「そこまで怒らなくても」
「怒るよ。怒るでしょ、こういうの」
僕はその横で、ひかりの語尾がやけに強いことに気づいていた。秋月の事情に、自分の何かが重なっているときの声だ。
手がかりになったのは、美園の持っていたコピー用紙だった。職員室横の印刷室で使う再生紙と同じ薄い青みがある。
「昨日、美園さん、印刷室行ったよね」
「……うん」
美園は顔色を変えた。
「誰かに頼まれて、下書きを一枚だけコピーした」
「誰に」
「秋月に見せたかったの。名前、入ってたから。あの子、家庭の事情で諦めるだろうなって思ってたし、せめて先に知ってほしくて」
それ自体は善意だった。問題はそのあとだった。
「コピーを見た誰かが、候補から秋月さんを外すよう教師に圧をかけた」
ひかりが言う。
そのとき、榊原が現れた。
「その言い方は正確じゃない。一ノ瀬」
副会長らしい堅い顔で、彼は掲示板の前に立つ。
「推薦は総合判断だ。事情のある生徒が不利になる構造があるとしても、今の言い方だと教師全体が恣意的に動いたみたいに聞こえる」
「違うの?」
「少なくとも、証拠が足りない」
「じゃあ、あるなら言っていい?」
「あるなら、だ」
この二人は、たぶん相性が悪い。正しいことを言うのに、立っている足場が違いすぎる。
僕は昨日たまたま見たものを思い出していた。進路指導室から出てきた英語教師の指先に、修正液の白がついていたのだ。文化祭準備の資料と違って、あの先生はいつも液体タイプを使う。
そのことをひかりにだけ小声で伝えると、あいつは一瞬だけ僕を見て、それから前を向いた。
「じゃあ、証拠を揃えよう」
進路指導室へ行くと、担当の英語教師は露骨に嫌そうな顔をした。
「下書きが混ざっただけです」
「じゃあ、なぜ秋月さんの名前だけ消えたんですか」
「誤記です」
「昨日は入っていて、今日は消えてるのに?」
「総合判断の変更です」
「何の基準で?」
「それは教師側の判断であって、生徒が踏みこむことでは」
「踏みこみます」
ひかりが言う。
「推薦って、その人の将来の入口でしょう」
「一ノ瀬」
僕はまた止める。
「真正面から殴るな」
「でも」
「相手が教師だと、余計閉じる」
榊原がそこで僕の横へ並んだ。
「副会長として聞きます。正式掲示前の内部資料が露出し、その後に候補名が書き換えられた。生徒への説明責任はあります」
英語教師は明らかに面倒そうだったが、榊原には無視しづらいらしい。観念したように、推薦候補の評価表を机の上へ出した。
そこには、欠席日数と家庭事情に関する備考があり、秋月の欄だけ「推薦後の継続的通学に不安」と書かれていた。
「これ」
ひかりが低く言う。
「家庭の事情を、本人の責任みたいに書いてる」
「進学先へ迷惑をかけないための配慮だ」
教師は言った。
「現実的な判断です」
「現実って言葉で切り捨ててるだけでしょう」
「理想論で学校運営はできません」
空気が張りつめる。
「やめろ」
僕は小声で言う。
「ここで感情ぶつけても、秋月の枠が戻るとは限らない」
「でも」
「取り返すのが先だ」
榊原がひとつ咳払いをした。
「記録は残していますね」
「当然だ」
「では、この備考と判断経緯を学生会側にも提出してください。推薦の公正性に関わるので」
「そこまで」
「必要です」
榊原の圧のかけ方は、ひかりとは別種の怖さがあった。
最終的に出てきたのは、英語教師が“欠席日数の見栄え”を理由に、秋月を候補から外すよう進言した記録だった。家庭の事情を知りながら、推薦後のトラブルを避けたいという、ひどく学校らしい言い分だ。
ひかりはそれを真正面から叩いた。
「問題が起きそうだから外す、で済ませるなら、誰も助からないでしょう」
榊原は何も言わなかった。ただ、僕のほうを一度だけ見た。たぶん気づいている。今の一手が、ひかり一人の直感ではなく、僕の見たものを経由していることに。
結局、候補の再検討がかかり、秋月の名前は正式な推薦審査対象に戻った。確定ではない。それでも、「事情があるから最初から外す」はひとまず止まった。
帰り道、ひかりは秋月から借りた栞を弄びながら言った。
「今日はちょっと、湊がいなかったら詰んでた」
「珍しく素直だな」
「でも、たぶん主人公って、ああいう地味な証拠拾わないんだよね」
「じゃあ何なんだよ、俺」
「裏コマンド」
「雑だな」
「でも、ラノベの主人公ならそうした」
「お前、解決後に自分を励ますみたいに言うよな」
「だって今日、あんまり気持ちよく勝ってないから」
たしかに、そういう回だった。
◆
推薦の再検討が決まったあと、秋月は図書室の奥の机でしばらく動かなかった。
「よかった、でいいのかな」
僕が言うと、秋月は首を傾げた。
「まだ決まってないから」
「でも、最初から切られるよりは」
「うん。それはそう」
ひかりは棚の影にもたれたまま、本の背表紙を見ていた。黙っているときのあいつは、何を考えているのか分かりにくい。
「秋月さん」
やがてひかりが言う。
「推薦、欲しい?」
あまりに直球で、僕は思わず顔をしかめた。けれど秋月は、少しだけ考えてから答えた。
「欲しいよ」
「家から出る理由になる?」
「……なる」
その一言で、図書室の空気が少し変わった。
「だったら、なおさら“事情があるから無理”で切るの、最悪だね」
ひかりが低く言う。
「だって、その事情から出るための切符かもしれないのに」
秋月は笑った。困るときにする笑い方じゃなく、少しだけ助かったときの笑い方だった。
その帰り、榊原が僕だけを呼び止めた。
「一ノ瀬さんは、手続きを嫌うわりに、手続きが人を救う場面も見てきたはずだ」
「そうですね」
「君はそこを繋げている」
「買いかぶりです」
「そうでもない。だが、その位置に甘えるなよ」
言い残して去っていく後ろ姿を見ながら、僕は少しだけ嫌な気分になった。図星を突かれた感じがしたからだ。




