第5話 見学届は誰のため
佐伯菜月を最初に変だと思ったのは、僕だった。
正門の近くで見かけた朝、彼女は制服の上から薄いカーディガンを羽織り、やけに大きなトートバッグを肩にかけていた。バッグの横から、小さなキャラクターもののタオルが覗いていたのを覚えている。高校生の持ち物というより、もっと小さい子どものものみたいだった。
「妹でもいるのかな」
何となく呟いたら、隣のひかりが一度だけそちらを見た。
「弟っぽい」
「見ただけで?」
「タオルの柄」
「分かるのかよ」
「ラノベの主人公ならそうする」
「観察の雑な正当化やめろ」
それから三日続けて、佐伯は一時間目の体育を見学していた。見学届は出ている。保健室にも行っている。書類の上では何もおかしくない。
でも、書類の上で整いすぎているときほど、学校はだいたい変だ。
体育の見学届が三回連続で同じ筆跡だった、と秋月が教えてくれた。
秋月はいつの間にか図書委員だけじゃなく保健委員の手伝いまでしていて、そういう細かい違和感を拾うのがうまい。
「同じ筆跡って、本人の字じゃないってこと?」
「うん。しかも日付だけ毎回あとから書き足してある」
「見学届なんて、そこまで見るか普通」
「見る人がいないと、見えなくなるものがあるから」
秋月のその言い方は、最近少しずつひかりに似てきた気がする。たぶん、それはあまりよくない。
見学届の主は一年の佐伯菜月。いつも静かで、授業が終わるとすぐ保健室へ行く生徒だった。
「足でも悪いんじゃないの」
「だったら湿布の減り方が変」
秋月が言う。
「保健室で渡されてるのに、開けられてない日が多い」
「そこまで見てるのか」
「保健委員の仕事の範囲です」
ひかりは保健室の前に立つと、ノックもそこそこに入っていった。
「佐伯さん、足、ほんとは痛くないよね」
雑すぎる入り方だった。保健の先生が眉をひそめ、佐伯はびくっと肩を震わせる。
「一ノ瀬さん」
「ごめんなさい。でも、見学届の筆跡、先生の字に似てる。しかも湿布、いつも開けられてない」
「だからって」
「眠ってるだけでしょう」
保健の先生が苦い顔をした。
「……よく見てるのね」
「見てます。で、なんで隠すんですか」
「隠すって言い方はやめなさい」
先生の声が硬くなる。僕はひかりの袖を引いた。
「少し下がれ」
「でも」
「“でも”じゃない。入ってすぐ断定するな」
「ラノベの主人公ならそうする」
「今それ言うな。あと保健室でやるな」
「場所は関係ない」
「大ありだよ」
佐伯はベッドの端に座ったまま、目だけをこちらへ向けていた。逃げたいのか、言いたいのか、どっちつかずの顔だ。
「佐伯さん」
僕はできるだけ静かな声を出した。
「違うなら、違うでいい。ただ、先生が代筆してるなら、それは別の問題になる」
「……」
「誰かに責められるためじゃなくて、ちゃんと学校が把握するために聞いてる」
その言い方なら届いたのか、佐伯はゆっくり口を開いた。
「朝、家で弟見てるから」
それは意外でも何でもなく、ただ重かった。
母親は夜勤続きで、父親はいない。弟を保育園へ送ってから登校すると、一時間目に間に合わない日がある。体育の日は着替えも追いつかず、結局そのまま保健室で寝てしまう。そのたび先生が見学届を書いていた。
「言っても、どうにもならないから」
「なるよ」
ひかりは間髪入れずに言った。
「言わなきゃ、誰も動けない」
「……前も言った」
「え?」
その瞬間だけ、佐伯の顔に怒りとも諦めともつかない色が差した。
「前の学校でも、先生に言った。来るって言って、誰も来なかった」
ひかりの肩が、ほんの少しだけ揺れた。僕しか分からないくらい、わずかに。
「だから、もういいんです」
「よくない」
「一ノ瀬」
僕はまた止める。
「そこは言い切るな」
「でも」
「“もういい”って言ってる相手に、“よくない”だけ返すと、余計閉じる」
保健の先生が、珍しく僕のほうに助かったような顔を向けた。
「学校として動くには、本人の同意もいるの。勝手に家庭へ踏みこめるわけじゃない」
「でも、放っていい理由にはならないです」
ひかりが食い下がる。
「そうね」
先生も引かない。
「だから、今日ここで、佐伯さんがどこまでなら話していいかを決めましょう。担任に伝える範囲、スクールカウンセラーに繋ぐ範囲、家庭へ連絡するかどうか」
それは、ひかりが一番嫌う「手続き」だった。すぐ助けに行く形じゃない。でも、今の佐伯に必要なのはそっちだと僕にも分かった。
佐伯はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「全部は嫌です」
「うん」
「でも、朝のことと、弟の送り迎えのことだけなら」
「それで十分」
先生が頷く。
「最初の一歩としてね」
結局、その日は先生と担任とスクールカウンセラーが入り、佐伯の家の状況を学校が正式に把握することになった。完全に解決したわけじゃない。明日から全部楽になる話でもない。ただ、「見学届が勝手に処理されるだけ」の状態からは外れた。
帰り道、ひかりはいつになく静かだった。
「湊」
「なに」
「助けを求めたあとで、誰も来なかったら、もう二度と言えなくなると思う?」
僕は少し考えてから答えた。
「なるやつもいる」
「……そっか」
「お前、今日は珍しく止まったな」
「止まったんじゃなくて、遅れた」
「何に」
「言葉に」
信号待ちで横顔を見ると、いつもみたいな強い顔じゃなかった。こいつの中には、たぶん一つ、開けてはいけない引き出しがある。僕はまだ、その中身を知らない。
「でも」
ひかりが前を向いたまま言う。
「最後にちゃんと動いたから」
「誰が」
「佐伯さんも、先生も、私たちも」
「……そうだな」
「ラノベの主人公ならそうした」
解決後にそれを言うと、少しだけ救いみたいに聞こえるから不思議だった。
◆
保健室を出たあと、僕たちはそのまま帰れなかった。
担任が呼ばれ、スクールカウンセラーが入り、佐伯は“どこまでなら話していいか”を一つずつ決めていく必要があったからだ。学校の手続きは遅い。遅いが、勝手に踏みこまないためには必要な遅さでもある。
「全部まとめて助ける、はできないんだな」
ひかりが廊下で言う。
「できたら楽なんだけど」
「楽って言うなよ」
「楽だろ。お前だって一発で救えるなら、そっち選ぶ」
ひかりは否定しなかった。
少しして、保健の先生が出てきた。
「佐伯さん、今日は早退にしたわ。担任が弟さんの迎え先まで一緒に行くって」
「先生」
ひかりが顔を上げる。
「一回ちゃんと来てくれるだけで、違うと思うんです」
「分かってる」
先生は穏やかに答えた。
「だから今日行くの。今日は、ね」
その『今日は』が、ひかりには引っかかったらしい。
帰り道、信号待ちでぽつりと訊いた。
「一回来ても、次に来なかったら、やっぱり駄目かな」
「駄目っていうか」
僕は少し考えた。
「一回来た人のことは、案外、待つんじゃないか」
「待つ?」
「次も来るかもしれないって」
ひかりは前を向いたまま、しばらく黙った。
「……それ、優しい?」
「半分」
「半分は?」
「残酷」
そのあとで、ようやくあいつは小さく笑った。




