第4話 消えた脚本と代役
演劇部の稽古を最初に見たのは、脚本が消える二日前だった。
文化祭前で空き教室が足りず、廊下まで台詞が漏れていた。三雲先輩の声はよく通る。『帰る家なんてないよ』と、舞台の中の主人公が言ったところで、教室の中が一瞬だけ静かになった。
次の瞬間、椅子の脚が鳴った。後ろで台本を持っていた一年の女子が、あからさまに顔色を悪くしたのだ。
「大丈夫?」
誰かがそう言ったが、その子は『なんでもないです』と笑って部室を出ていった。
「今の、何でもなくないだろ」
僕が言うと、ひかりは廊下の壁に寄りかかったまま答えた。
「うん。しかも、あの脚本を書いた側は、たぶん善意でやってる」
「善意ならなお面倒だな」
「いちばん面倒だよ。悪意なら止める理由が簡単だから」
その時点では、まさか台本ごと消えるとは思っていなかった。
でも、あの一瞬の静けさだけは、ずっと引っかかっていた。
文化祭一週間前、演劇部の脚本が消えた。
顧問は顔を真っ赤にし、主演の三雲先輩は泣きそうな顔で台本置き場をひっくり返し、代役候補の名前だけが廊下で先に飛び交っていた。
「脚本なんてコピーあるだろ」
僕が言うと、演劇部の一年が首を振った。
「最新版は一冊だけです。先生の直しも入ってて、稽古用の書き込みも全部あって」
「なんでそんな大事なものを紙で一冊だけ」
「文化部はそういうことする」
ひかりが平然と言う。
「文化部全体に謝れ」
演劇部の部室は、舞台袖の延長みたいな雑然さだった。ガムテープ、ペンキ、衣装ケース、未完成の大道具。その真ん中で、三雲先輩だけが妙に整って見える。主役らしい顔、主役らしい立ち方。でも今はそれが全部、空回りしていた。
「昼休みにはあったんです」
三雲先輩が言う。
「私、稽古前に一回読んで、そのあと小道具室に行って戻ったら、なくなってて」
「誰でも出入りできた?」
「部員は。あと、実行委員の見学が少し」
「鍵は?」
「かけてません」
ひかりは台本置き場より先に、掲示板の配役表を見た。そこに、代役候補として別の名前が薄く書き足されていたからだ。
「消えたの、今日の昼休みだよね」
「そうだけど」
演劇部員の一人が答える。
「じゃあ、脚本を盗んだ人は、探すふりをする前に“代役にしたい人”を決めてたことになる」
「そんなの、ただのメモかもしれない」
「かもしれない。でも舞台って、誰が代役になるかで空気変わるでしょ」
「……変わります」
「だったら、台本を消した理由は“上演を止める”か“役をずらす”のどっちか」
演劇部の空気がぴりっと張る。やめろ、と言いかけて、僕は飲みこんだ。もう遅い。ひかりはこういうとき、引かない。
小道具室、舞台袖、倉庫。順番に見て回って、最後に見つかったのは舞台袖のゴミ箱だった。台本の表紙だけが捨てられている。
「表紙だけ?」
「中身は?」
「ないです」
「燃やされたとか?」
「校内で?」
ひかりは表紙の折れ方を見て、即答した。
「燃やしてない。抜き取っただけ」
「何で分かるの」
「折り返しがきれいだから。急いで隠したんじゃなく、ちゃんと剥がしてる」
その瞬間、三雲先輩の目がわずかに揺れた。
僕はそれを見逃さなかったが、ひかりのほうが早かった。
「三雲先輩」
「え」
「脚本、上演したらだめだったんですか」
部室の空気が止まる。
「何言って」
演劇部の二年が強い声を出す。
「主演を疑うの?」
「疑ってる。というか、そうじゃないと説明つかない」
また始まった、と思った。
「ひかり」
「なに」
「順番」
「分かってる」
分かっていないときの顔だった。
「表紙だけ剥がす必要があるのは、脚本の中身を読まれたくない人。上演そのものを止めたい人。代役を書きこんだのも、主演が出られない形にしたかったから」
「だからって三雲先輩って」
「じゃあ誰」
「……知らないけど」
「私は知ってる」
「知ってる顔で言うな」
三雲先輩は少し黙ったあと、唇を噛んだ。
「……あの脚本、上演したらだめだった」
ようやく、答えが落ちる。
「モデルがいたから」
ひかりが言うと、演劇部の一年の一人が顔を上げた。細い肩をしていて、いつも俯いている後輩だ。
「家に帰れない女子高生が友達の家を転々とする話。部員の中に、似た状況の人がいる」
「待って」
書き手の二年生が立ち上がる。
「私は助けたくて書いたんです」
「分かる」
ひかりは頷いた。
「でも、許可を取ってないまま“みんなの前に乗せる”のは違う」
「名前も事情も変えてる」
「変えてても、当人と周りには分かる形だった」
三雲先輩が絞り出すように言う。
「稽古の読み合わせで、あの子の顔色が変わった。止めなきゃって思った。でも、脚本を書いた子の気持ちも分かるし、顧問は“ここが作品の核だ”って気に入ってたし、どう言えばいいか分からなくて」
書いた側の二年も泣きそうな顔になった。
「私は、その子のこと、ほんとに心配で」
「心配と公開は同じじゃない」
ひかりが言い切る。
「助けるつもりでも、本人の外側から勝手に意味をつけたら、傷を広げる」
その正しさが部室の真ん中に落ちる。誰にとっても痛いかたちで。
「やめろ」
僕は思わず言った。
「そこまで一気に切るな」
「でも」
「書いた子も、止めた子も、たぶん両方間違ってるし、両方間違ってない」
ひかりは僕を見る。少しだけ不満そうで、少しだけ聞く気のある顔だった。
「じゃあどうするの」
「上演をやめるか、形を変える」
「朗読劇」
隅にいた一年が小さく言った。
「舞台化じゃなくて、場面ごとに切って、当事者に近い部分を外すなら……」
顧問は露骨に嫌そうだったが、ひかりがそこで押しきった。
「それでいい。脚本全部を消すんじゃなくて、傷を晒す部分だけ降ろす」
「それは作品の改変だ」
「はい。今は人のほうが先なので」
正しい。言い方は最悪だが、正しい。
結局、上演は中止ではなく朗読劇に変わった。三雲先輩は主演のままで、書き手の二年もクレジットから消えなかった。ただし、当事者の事情が透ける核の場面だけは全面的に書き換えられることになった。
全部が丸く収まったわけじゃない。脚本を書いた側は泣いたし、止めた側も泣いた。顧問は最後まで「表現の自由」を口にしていた。けれど、少なくとも誰かの傷を拍手の材料にする形では終わらなかった。
その日の帰り、ひかりのロッカーにまた紙が入っていた。
『助けるたびに、誰かを追いつめる』
僕が見つけるより先に、ひかりはそれを破いた。
「誰だよ」
「知らない」
「怖くないのか」
「怖いよ」
意外な返事に、僕は少し黙った。
「でも、怖いからやめるなら、最初から主人公なんて言わない」
「そういうとこだよ」
「何が」
「危ないって言ってる」
そのあと、僕は演劇部の後輩と顧問に会って、朗読劇への変更案を正式に通した。誰も大声で傷をさらさなくて済む形に、ぎりぎり寄せる。
ひかりはそれを知らない。知らないままでいいと思っていた。あいつが前へ出て、僕があとを整える。その形が、いちばんうまく回る気がしていたからだ。
帰り道、ひかりがぽつりと言った。
「ラノベの主人公ならそうした」
「今日はまた解決後なんだな」
「だって、終わったあとでしか言えない」
「後味悪いときほど?」
「うん。そういう話だから」
そう答える横顔が、少しだけ疲れて見えた。
◆
朗読劇への変更が決まってからも、演劇部の空気はしばらくぎくしゃくした。
書き手の二年は『自分の善意が一番危なかったんだって、分かってるけど辛い』と泣き、三雲先輩は『止めたのが私でよかったのか分からない』と椅子に座りこんだ。問題を見抜くことと、そのあと居続けることは別の仕事だ。
「真壁くん、台本のこの場面、切ると繋がらなくない?」
「繋がるように直すしかないです」
気づけば僕は、脚本の並び替えにまで付き合っていた。ひかりは窓際でそれを眺めている。
「手伝えよ」
「私は人の台詞直すの向いてない」
「人の人生のほうには躊躇なく入るくせに」
「……それはそう」
その夜、演劇部の後輩がひかりにだけ小さく頭を下げた。
「一ノ瀬さん、ありがとうございました」
「私より、言えなかったことを言った三雲先輩に」
「でも、あのまま上演してたら、たぶん私、部活やめてた」
ひかりは少しだけ言葉に詰まった。
「……だったら、止めてよかった」
帰りの靴箱には、また紙が入っていた。
『助けるたびに、誰かを追いつめる』
僕が読むと、ひかりはいつもより丁寧にそれを折った。
「反論しないのか」
「半分は当たってるから」
「認めるなよ」
「認めた上で進むのが主人公でしょ」
「便利な言葉だな、それ」
でも、その夜のひかりは少しだけ眠れなさそうな顔をしていた。




