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第3話 投票箱は嘘をつかない

ステージ企画の投票が近づくにつれ、昼休みの校舎は選挙みたいになっていた。

軽音部は中庭でアコギを鳴らし、ダンス部は昇降口で短い振りを見せ、吹奏楽部は「演奏体験会」と書いた紙を貼っていた。どこも自分たちが出たがっている。なのに、肝心の生徒会の説明はやたらと固く、企画の安全管理と運営責任ばかりが先に来る。

「夢のなさすごいな」

「事故を出さないほうが先だから」

そう言ったのは榊原蓮、副会長だ。文化祭以降、たまに見かけるようになったが、相変わらず言い方が堅い。

「一ノ瀬さん、去年の転倒事故の報告書、読んでないでしょう」

「読んでない。面白くなさそうだから」

「最低だな」

「でも、面白くないものを読んでる人がいるから学校が回るんでしょ」

その返しに、榊原はほんの一瞬だけ言葉を止めた。褒められたのか茶化されたのか分からない顔だった。

ステージ枠を熱心に欲しがっていたのは軽音部だ。けれど、その中心にいる由井の顔色は、主役にしては明るくなかった。前を通りかかった小川七海が、その様子を何度も振り返っている。

「小川、気にしてるな」

「守りたいんだと思う」

「守るために票をいじる、なんてオチだったら嫌だぞ」

「嫌だけど、ありそう」

ひかりがそう言ったとき、なぜだか少しだけ、嫌な当たり方をすると思った。

文化祭のステージ企画をどのクラスが使うかは、学年全体の投票で決まる。

その開票が終わった日の放課後、負けたクラスの連中が廊下で騒いでいた。うちのクラスは一票差でステージ枠を取ったらしいが、問題はその中身だった。代表に選ばれたのは、ギターを弾けるわけでも、ダンスができるわけでもない、合唱部の小川七海だった。

「ありえないだろ」

「誰か遊びで入れたんじゃない?」

「不正だって」

そこへ学生会副会長の榊原蓮が現れた。背が高く、眼鏡の奥の目が冷たい。騒いでいた連中の前に立つだけで、場の温度が少し下がる。

「再集計はします。ただし、騒げば事実になると思わないでください」

「でもおかしいじゃないですか」

「おかしいと感じることと、不正があったことは別です」

言い方が堅い。たぶん、わざとだ。感情を先に走らせるやつを嫌う人間の言葉だった。

「面倒そうなの来たな」

僕が言うと、ひかりは投票箱を見たまま答えた。

「面倒そうなのはお前」

「いや絶対こっちだろ」

「でも、投票箱は嘘つかないよ」

「人はつく」

再集計は空き教室で行われることになった。榊原が学生会の記録係を呼び、各クラス代表が壁際に立つ。小川は最初から泣きそうな顔で、なぜ自分の名前があんなに入っているのか分からないという表情をしていた。

「私、出ないよ。最初から言ってるのに」

「じゃあなんで票が入るんだよ」

軽音部の男子が噛みつく。

「知らない」

「知らないで済むかよ」

そこへひかりが横から割って入った。

「小川さんに怒鳴っても票は増えない」

「は?」

「増えたなら別だけど」

「今それ言う?」

僕は額を押さえた。言う。こいつはこういうとき、言う。

開票用紙の束を見せてもらったひかりは、二十枚ほど数えたところで手を止めた。

「一枚だけ折り方が逆」

榊原が眉をひそめる。

「だから?」

「この箱、投票口が狭かったから、みんな縦に二つ折りで入れてる。でも一枚だけ横折り。開票前に入ってたなら、かなり目立つ」

「たまたまだろ」

軽音部の男子が吐き捨てる。

「たまたまでもあり得る。でも、開けたあとに一枚足したなら説明がつく」

空気がわずかに変わった。

榊原は投票用紙を受け取り、無言で折り方を確認する。たしかに、一枚だけ異質だ。しかも、その一枚に書かれているのは小川七海。

「誰がそんなことを」

「小川さん本人」

ひかりが言うと、全員が小川を見た。

「違っ……」

「違わない。あなた、選ばれたくなかったんでしょう」

「何言って」

「だったら黙ってろよ」

僕が小声で言う。

「まだ証拠が薄い」

「薄くない」

「いや、今の段階では薄い」

「湊」

「やめろって。お前、先に結論で殴る癖あるから」

ひかりは少しだけ息を吐き、それでも引かなかった。

「じゃあ、順番に行く。まず筆圧」

彼女は問題の一票を指で押さえる。

「この一枚だけ、名前の筆圧が極端に弱い。利き手じゃない手で書いたみたいにふらついてる。でも『小川七海』だけ妙に丁寧。自分の名前だから形を覚えてた」

「そんなの、真似して書けば」

「できるよ。でも、次がある」

ひかりは小川の机の横に置かれたトートバッグを見た。

「小川さん、さっきからそのバッグの口、ずっと閉めてる」

「関係ないでしょ」

「関係ある。投票用紙を入れた人は、どこかで余分な一枚を隠して持ち歩く必要があった」

「投票箱の前で書けば」

榊原が言う。

「いや、それだと監視の目がある。だから、最初から書いて持ってたほうが自然」

ひかりは小川の返事を待たず、僕を見る。

「湊」

「分かってるよ」

僕は小川の近くへ行き、できるだけ穏やかな声を出した。

「見せてくれ。今ここで終わらせるなら、そのほうがいい」

小川は数秒迷ってから、バッグを開けた。中には楽譜のファイルと、のど飴と、折れた鉛筆。そして、小さなメモ帳。最後のページだけが一枚、きれいに切り取られていた。

「メモ帳の紙質、同じ」

ひかりが言う。

榊原が用紙の端を比べる。

「……たしかに」

小川の肩が落ちた。

「理由は」

榊原が問う。

小川はすぐには答えなかった。代わりに、軽音部のほうを見た。その視線の先にいたのは、ボーカルの由井だった。夏の大会で過呼吸を起こして倒れたことがある女子だ。

「あの子、また倒れるから」

小川の声は震えていた。

「みんな“もう大丈夫”って言うけど、まだ全然大丈夫じゃない。なのに、ステージに出る話になると、誰も止めない」

「だから自分に票を足した?」

「そう。私が代表になれば、ステージ企画そのものが止まると思った」

「軽音部に直接言えばよかっただろ」

男子の一人が言うと、小川は笑いそうな顔で首を振った。

「言ったよ。でも、“本番までに慣れるから”って」

由井が唇を噛んでいる。

「別に、私、頼んでない」

「頼まれてないよ。勝手にやった」

「じゃあ余計なお世話じゃん」

「うん。分かってる」

それで全員が黙った。

ひかりはいつものように前に出た。正しさが必要だと判断した顔だった。

「だったら最初から言えばよかった」

「言っても、分かってもらえないから」

「言わなきゃ、もっと分からない」

きつい。正しいけれど、きつい。

「ひかり」

僕が止める。

「もうちょい言い方」

「でも」

「お前の正論で由井が責められたら、それも違うだろ」

ひかりはそこで初めて少し黙った。榊原が代わりに口を開く。

「再投票をする。ただし、軽音部の代表者は顧問と面談。体調面の管理と出演形態を学生会も確認する」

「副会長」

軽音部の男子が不服そうに言う。

「甘くないですか」

「甘いかどうかじゃない。不正は不正として処理し、背景の問題は別に扱う」

榊原の言い方は冷たいが、線引きは正確だった。

教室を出るとき、小川がひかりを呼び止めた。

「一ノ瀬さん」

「なに」

「私、最低かな」

「最低なら、最初から倒れるかもしれない人を止めようなんて考えない」

「じゃあ」

「でも、やり方は最低だった」

「……そっか」

「だから次は、ちゃんと正面から止めて」

小川は泣きそうな顔で頷いた。

帰り際、榊原が僕にだけ聞こえる声で言った。

「君の幼馴染は、いつもああやって結論を急ぐのか」

「急いでるっていうか、止まれないんです」

「危険だな」

「知ってます」

「君は?」

「何が」

「その危険を、止める側でいたいのか」

答えに困っているうちに、榊原は先へ行ってしまった。

ひかりは少し先の廊下で待っていた。

「榊原、なんて?」

「お前は危険だって」

「知ってる」

「さらっと言うな」

ひかりは僕の顔を見て、少しだけ笑った。

「でも、ラノベの主人公ならそうした」

「またそれか」

「だって、票を足した理由まで分かったし」

「お前は解いたあとに言うんだな」

「解決後の台詞だから」

「自覚あるのが一番たち悪い」

知っていて止まらない。そこが、あいつのいちばん危ないところだった。

再投票の前に、由井が小川を呼び止めた。

軽音部の控え室代わりになっている準備室の前で、二人はどちらも目を合わせないまま立っていた。

「私、頼んでないから」

 由井が先に言う。

「分かってる」

「倒れるって決めつけられるの、嫌なんだけど」

「それも分かってる」

「分かってるなら、あんなことするなよ」

小川は唇を噛んだ。怒鳴り返さないところが、かえって重い。

「去年、救急車の横でさ。みんな“大丈夫、大丈夫”って言ってたじゃん」

「……うん」

「私だけ、あれ大丈夫じゃないって思ってた」

由井が初めて顔を上げた。

「だったら、直接言えよ」

「言ったら、お前、やめる?」

「やめない」

「でしょ」

そこへひかりが割りこみかけたので、僕は慌てて腕を引いた。

「今は入るな」

「でも」

「二人の“でも”がぶつかってるとこだろ。お前の正解で蓋するな」

ひかりは珍しく、すぐには動かなかった。

結局、再投票の前に、由井のほうから条件が出た。『ステージはやる。でも本番直前のソロは外す。代わりに合唱部と合同で一曲やる』。逃げるでも、無理を押し切るでもない、ぎりぎりの妥協だ。

「学生会は安全面だけ管理する」

 榊原が言う。

「演出までは口を出さない」

その線引きは、たぶんこの人なりの譲歩だった。

放課後、ひかりは廊下の窓にもたれて言った。

「不正を暴くだけなら簡単なんだよね」

「そこから先が難しい」

「うん。ラノベの主人公ならそうした、で済むの、たぶん最初の一歩だけ」

珍しく、言葉が少しだけ沈んでいた。

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