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第3章 第11話 役を返せ

 展示本番の前日、理人は保健室の前のベンチでうずくまっていた。


 呼ばれたわけではない。ひかりが「浅木、今日は顔が変」と言って見つけただけだ。

 理人は僕らを見ると、逃げることもできずに立ち上がろうとして、途中でやめた。


「無理しなくていい」

 僕が言う。

「無理してません」

「その返しをするやつはだいたい無理してる」

 ひかりが容赦なく切る。理人は少し笑おうとして失敗した。


 保健室の脇の小部屋を借りて話を聞いた。理人は最初、何度も『すみません』しか言わなかった。ひかりが三回目で遮る。

「謝る順番、あと」

「でも」

「あと」

 理人は俯いたまま、ようやく言う。

「僕、最初はほんとに、小さい揉め事を整理したかっただけなんです」

「知ってる」

「誰かが言えないことを、少し言いやすくしたかった」

「うん」

「でも、うまくいったら、次もやりたくなって。みんな助かった顔をしたから、もっと使えるって思って」

 そこで声が詰まる。

「星名さんに、形にできてるって言われて、嬉しかったんです」


 それはたぶん、本心だった。善意に技術がつくと、人は自分を有能だと勘違いしやすい。

 理人は続ける。

「白石さんのこと、僕、止められたはずなんです」

「一人では無理だった」

 僕が言う。

「でも、最初に“よかったこと”として扱ったのは僕です」

「うん」

「先輩たちの真似をしたつもりでした」

 そこでひかりが顔を上げる。怒るかと思った。けれど、声は意外なほど静かだった。

「真似じゃないよ」

「え」

「お前なりに、ちゃんとやった結果だよ。だから余計に重い」

 理人は、その言い方に救われたのか傷ついたのか、自分でもわからない顔をした。


 理人を残して廊下へ出ると、ひかりは壁にもたれたまま天井を見た。

「きつい」

「うん」

「怒れない」

「そうだな」

「だって、あれちょっと前のわたしたちの遠い親戚だもん」

 ひかりの比喩は時々変だ。でも本質だけは妙に刺さる。


 午後、星名と最後の話し合いを持った。生徒会室ではなく、展示室の真ん中。まだパネルは半分布をかけられたままだ。まるで舞台のリハーサルみたいだった。

「明日、やるの」

 ひかりが聞く。

「やる」

 星名は答える。

「理人も、白石さんも、もうこの形じゃ無理」

「無理でも、学校は明日を迎える」

「そのために人を役に押し込むの、やめろって言ってる」

「やめたら、何が残るの」

 星名の声は落ち着いていた。冷たいというより、疲れた理性だった。

「雑音よ。説明しづらい感情。誰の責任か決めきれないまま残る後味。学校はそれを抱えられない」

「抱えろよ」

 ひかりが言う。

「それが大人だろ」

「一ノ瀬先輩、学校に夢見すぎ」

「お前は学校に諦めすぎ」

 二人の間に、薄い火花みたいな沈黙が落ちる。


 僕はそこでやっと口を開いた。

「たぶん、どっちも酔ってる」

 ひかりが振り向く。星名も黙る。

「ひかりは、“踏み込む自分”に酔ってた」

「急に刺すじゃん」

「今はそういう時間だ」

 僕は続ける。

「僕は、“よりましな終わり方を選べる自分”に酔ってた。星名は“編集できる自分”に酔ってる。理人は“人を動かせる自分”に酔ってた」

 言葉にすると、どれも醜かった。

「だから、ここまで来た」


 ひかりは数秒黙ってから、小さく吐く。

「……否定しづらい」

 星名だけは表情を変えない。

「酔っていることと、必要なことは両立するわ」

「そうかも」

 僕は認める。

「でも、酔ったまま人の役を決めるのは終わりにする」


 その日の夕方、ひかりと二人で屋上へ上がった。風が強く、フェンスの隙間から夕日が薄く差していた。話したいことは多いのに、すぐには言葉にならない。珍しく、ひかりのほうから口を開く。

「ねえ」

「うん」

「お前、ずっと怖かった?」

「何が」

「白石さんのこと」


 僕は少し考えてから答える。

「怖かった。途中からは、僕が作った“ましな終わり方”が一番怖かった」

「うん」

「でも、それでも考えるしかないと思ってた」

「それもわかる」

 ひかりはフェンスに手をかけた。

「わたしは逆。止めたい気持ちが先に来る。止めたあと、どう残るかは後になる」

「知ってる」

「だからお前が必要だった」

 その言い方がまっすぐすぎて、少し息が止まった。


 ひかりは続ける。

「でも、お前が“ましな終わり方”ばっかり見てると、今度はわたしが嫌になる」

「だろうな」

「なんでわかるの」

「ずっと見てるから」

 そこで、ひかりは少しだけ笑った。すぐ消えたけれど。

 しばらくして、僕は口の中で転がしていた言葉を出した。

「ひかり」

「なに」

「僕、たぶんまた同じことする」

「何を」

「三択作って、いちばん被害が少なそうなのを選ぶ」

「うん」

「それで、誰かを追いつめるかもしれない」

「うん」

「それが怖い」

 ひかりはすぐには答えなかった。風が一度強く吹き、髪が頬に張りつく。彼女はそれを払うのも忘れたまま、僕を見た。

「じゃあ、今度はわたしが止める」

「止められる?」

「止める。嫌われても」

「……うん」

「でも、お前も止めろ」

「何を」

「わたしが“踏み込めばなんとかなる”って顔したとき」

「する」

「即答」

「するよ」

 そこでやっと、互いに寄りかかるんじゃなく、互いを監督する形が見えた気がした。恋愛とか、慰め合いとか、そういう柔らかいものじゃない。もっと面倒で、もっと具体的な責任だった。


 沈黙のあと、僕はふと口にした。

「今日は、結末を書くんじゃない」

「うん」

「書いたあとも、残る」

 ひかりは短く頷いた。

「それなら、わたしも付き合うよ」


 理人の話を聞き終えたあとも、僕らはすぐに結論へ行けなかった。保健室脇の小部屋は狭くて、午後の日差しが半分だけカーテンの隙間から差しこんでいた。理人は俯いたまま、何度も指先で制服の裾をいじっている。あれを止めたら、たぶんまた「すみません」しか言えなくなる。

「浅木」

 ひかりが言った。

「お前、今いちばん嫌なの、怒られることじゃないでしょ」

 理人はゆっくり顔を上げる。

「……はい」

「じゃあ何」

「ちゃんと役に立ったと思ってたことが、役に立ってなかったかもしれないってわかることです」

 その答えに、僕もひかりもすぐ返せなかった。たぶん、いちばん痛いところを言い当てたからだ。

「それ、わかる」

 ひかりが先に言う。

「すごくわかる。だから嫌」

 理人はそこで初めて、ひかりを見て泣きそうな顔をした。救われた側が、救う真似をして、壊したかもしれない。その構図は、理人だけのものじゃない。


 理人を帰したあと、僕らは校舎裏の非常階段へ回った。展示の準備音が遠くから響く。

 誰かが脚立を引きずる音、テープを切る音、笑い声。

 学校は前へ進む気満々で、僕らだけが踊り場で足を止めていた。

「湊」

「なに」

「明日、うまくやるとか考えてる?」

「考えてる」

「やめろ」

 ひかりの言い方が妙に平らだった。怒鳴る手前で、必死に均している声。

「うまく、じゃなくて?」

「残る、だろ」

 その一言で、少しだけ楽になる。言われるまで、それをまた“手順”にしそうだった。

「ひかり」

「なに」

「お前も、明日、自分が正しい顔したら止まれ」

「止まる」

「ほんとに」

「……止まれなかったら、お前が止めろ」

 簡単な約束じゃない。けれど、こういう約束ができるのは、たぶんもう共犯より少し先だ。


 夜、家へ戻っても眠る気になれず、机に向かった。ノートを開いても、見出しの言葉が決まらない。正しい終わり方。被害の最小化。配役の解除。どれも違う気がする。言葉が先に決まった瞬間に、またそこへ人を押しこみそうで嫌だった。

 それでも書くしかない。書かないまま、明日を迎えるほうがもっと危ない。

 ペン先を紙へつけたところで、スマホが震えた。ひかりから一行だけ。

『寝るなとは言わない。でも一人で決めるな』

 短い。命令形に近い。けれど、その乱暴さに少しだけ救われた。僕が今やろうとしていることを、ちゃんと見張っている。

 返信は一行だけにした。

『決める前に見せる』

 既読はすぐについた。返事はない。それで十分だった。


 翌朝、展示資料の最終確認で星名とすれ違った。彼女は相変わらず姿勢が崩れない。

「顔色が悪いですね、真壁先輩」

「そっちも」

「眠れてませんから」

「僕も」

 たぶん本当にそれだけだった。敵味方というより、どちらも自分の方法論を最後まで信じ切れなくなっている人間の顔だ。

「今日、止めに来るんでしょう」

 星名が言う。

「止めるだけじゃない」

「じゃあ」

「残し方を変える」

 星名は少しだけ目を細めた。

「理想論」

「うん」

「でも、その理想論で押し返されるなら、少し見てみたい」

 完全な降伏ではない。けれど、相手もまた、今の形が完成だとは思っていない。その揺れを見たのは初めてだった。


 そのあと、ひかりが僕の持っていたノートをひったくるみたいに取って、最後のページを閉じた。

「今日はこれ、開くな」

「なんで」

「書いてから動くと、お前また“きれいな順番”作る」

「……作るな」

「知ってる。だから今日は、現場で考えろ」

 乱暴だけど正しい。それを正しいと思えるところまで来てしまったのも、たぶん僕の変化だ。

 教室へ戻る途中、ひかりは階段の途中で立ち止まった。

「湊」

「なに」

「明日、お前が“うまくやる”顔したら、ほんとに止めるから」

「うん」

「怒っても止める」

「うん」

「嫌われても止める」

 そこで僕は少しだけ笑った。

「それ、前にも聞いた」

「なら覚えろ」

 覚えている。こういう脅し方は、たぶん信頼していない相手にはできない。前へ進ませるためじゃなく、踏み外させないための強さだ。

 理人も、真帆も、星名も、きっと明日ひとつでは済まない。だからこそ、正しい台詞ひとつで片づけるわけにはいかなかった。


 深夜、机の上にはノートとスマホと、まだ乾ききらない緊張だけが残った。

 明日を怖がる時間を、逃げ道づくりには使いたくなかった。


 朝、教室へ入ると机の上に小さな紙袋が置かれていた。中身はカフェラテの紙パック一本。差出人の名前はない。けれど側面に、丸い字で『糖分とれ』とだけ書いてある。ひかりだ。

 雑だな、と思いながら笑ってしまった。気の利いた励ましも、長い言葉もない。

 けれど今の僕には、その雑さがちょうどよかった。

 深刻さを深刻なまま抱え込むと、また綺麗な結論で蓋をしたくなる。そうさせないための、一番ひかりらしい差し入れだった。

 紙パックを握ったまま窓の外を見る。今日で決める。正しい形じゃなくても、戻せるものから戻す。その覚悟だけは、砂糖みたいに少しだけ体に入ってきた。


 夜、自室の机でノートを開く。三択は書かない。代わりに、箇条書きでやることだけを書く。理人に話させる。真帆に選ばせる。展示の“その後”を当事者の言葉で差し込む。教師を退路のない位置へ立たせる。

 星名の正しさを否定するんじゃなく、その“あとに残らない”弱さを見せる。


 書き終えたところで、ひかりからメッセージが来た。

『明日、逃げるなよ』

 短い。返す。

『そっちも』

 すぐに既読がつく。

『わたしは逃げない』

 知ってる。だから僕も、逃げられなかった。

 ノートの最後に、見出しではなく一文だけ書く。

 ――役を返す。解いたあとも、そこに残る。


 眠る前、PCを開いた。書きかけの小説ファイルは白いままだった。タイトルだけが、画面の上に浮いている。カーソルをその下へ置いても、今日は物語の文が出てこない。代わりに、明日やることの順番だけが頭に並ぶ。誰を先に前へ出すか。誰にどこまで話させるか。どのタイミングで星名へ返すか。

 それはもう、小説ではなく段取りだった。けれど、段取りにしないと守れないものもある。そう思ってしまう自分が、やっぱり少し怖い。


 それでも最後に、たった一行だけ打った。

『正しい終わり方ではなく、終わったあとも残る覚悟を選ぶ。』

 保存して、画面を閉じた。

 布団へ入ってからも、ひかりの『じゃあ、今度はわたしが止める』が耳に残っていた。

 救われた、というより、逃げ道を塞がれた感じに近かった。

 でもたぶん、今の僕にはそのほうが正しかった。 多分。

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