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第3章 第12話 救ったあとも、そこに残る

 創立記念祭の朝、展示室はまだ開いていないのに、人の気配で満ちていた。


 教師、広報係、生徒会、文化部の代表。みんなが“何かが起こるかもしれない”顔をしている。

 起こるとすれば、たぶん僕らのせいだ。

 そう思われているのも分かっていたし、実際その通りでもあった。


 ひかりは会場の入口で、深呼吸をひとつした。

「行くよ」

「うん」

「今日は、暴くだけで終わらない」

「知ってる」

「よし」

 短い確認だった。もうそれで足りるところまで来ている。

 開場直前、展示室の中央へ戻ると、空気はさらに張っていた。教師側は“問題なく始めたい”顔をしている。調整会の一年たちは“何が起きるのか見届けたい”顔をしている。理人は青い。真帆は白い。僕とひかりだけが平気、というわけでもなかった。ただ、もう逃げるほうが面倒なところまで来ていただけだ。

「確認」

 ひかりが言う。

「止める順番」

「理人、真帆、パネル、最後に星名」

「逆じゃない?」

「逆だと全部“暴いた”話になる」

 その判断を、僕は一秒で理解した。誰を先に前へ出すかで、物語の重心は変わる。前なら、そこを“うまく見せる手順”として考えた。今は違う。誰が自分の言葉を取り戻しやすいか、その順番だ。

「了解」

「今日のお前、返事早い」

「今日は迷ってる時間も使う」

「それでいい」

 開場十分前、理人がマイクの前に立った。誰も予定していない人物だったから、会場の空気がざわつく。教師が止めようとしたが、上条だけは一瞬迷って、その手を下ろした。そこが良心なのか、ただの計算なのかはまだわからない。


「少しだけ、時間をください」

 理人の声は震えていた。けれど逃げてはいない。

「この展示の一部は、僕が関わっています。困っている人を助けたくて、言いやすくしたくて始めたことでした。でも途中から、誰がどう見えるか、どの役を置けば早く収まるか、そういうことを先に考えるようになりました」


 会場が静まる。理人は一度だけ唾を飲みこんだ。

「だから、まず最初に、そのやり方で傷ついた人がいたことを言います」

 教師たちが動きかける。ひかりが一歩前へ出た瞬間、上条が低い声で「続けろ」と言った。そこで、ようやく何人かの足が止まった。

 理人が二度目に「僕が始めました」と言ったとき、声の芯が少しだけ変わった。責任を取る言葉って、たぶんそういうふうに体へ入る。頼りない声のままではいられないのだ。


 次に前へ出たのは、真帆だった。ここが一番怖かった。本人が選んでいないなら、また同じことの繰り返しになる。けれど真帆は、自分から歩いてきた。少し遅い歩幅で、でも止まらずに。

「白石」

 担任が呼ぶ。

 真帆はマイクを握ったまま、そちらを見なかった。


「私、助けてもらいました」

 最初の一言がそれだったので、胸が痛んだ。けれど、次が違った。

「でも、助けてもらったあと、苦しいって言いにくくなりました」

 会場の空気が変わる。

「みんな善意だったんです。だから、余計に。感謝してるのに、まだ苦しいって言うのはだめな気がして」


 そこで真帆は、少しだけ息を整えた。マイクを持つ指がかすかにずれる。言葉は途切れそうなのに、足だけは前へ出たままだった。

「でも、だめじゃなかったです」

 その瞬間、前の列のどこかで拍手が起きかけた。ひかりが一歩前へ出る。声は出さない。ただ視線だけで、その流れを切った。拍手は人を役へ閉じこめる。いま必要なのは、きれいな承認じゃない。

 ひかりが横で小さく頷く。

「私は、応援される役とか、頑張ってる人の役とか、そういうのにしてほしかったわけじゃないです。助けられたあとに、どうしたらいいかわからなかっただけで。だから今日は、“大丈夫になりました”って言いに来たんじゃなくて、まだ迷ってますって言いに来ました」

 それは展示の言葉じゃなかった。生きている人の言葉だった。

 そこでやっと、展示は“いい話”ではなくなった。


 そこから、会場の空気が少しずつ壊れた。良い意味で。

 吹奏楽部の篠崎が「譲った先輩扱いは、あとでだいぶ腹が立った」と笑いながら言い、美術部の千葉が「失敗談の見本にされるのは嫌でした」と小さく続ける。写真部の後輩が「和解したって言われたけど、今も普通に気まずいです」と言ったとき、会場の後ろで誰かが吹き出し、その笑いがかえって救いになった。


 星名は、最初は黙っていた。表情を崩さず、配置したパネルの前に立っている。

 そこでひかりがマイクを持ち、真正面から彼女の前へ行った。

「星名、まだ言うことあるでしょ」

「何を」

「編集しないと何も伝わらない、ってやつ」

 星名は少しだけ視線を伏せ、やがて会場全体を見るように顔を上げた。

「私は、間違ってないと思う」

 きっぱりした声だった。

「事実をそのまま積んでも、人は見ない。意味を与えて並べたから、今これだけ人が集まってる」

「人を集めるために、人を役に押しこんだ」

 ひかりが返す。

「押しこんでない。わかりやすい形にしただけ」

「同じだよ」

 そこで、僕が口を開く。

「違いがあるなら、“そのあとに残るかどうか”だけだ」

 星名が僕を見る。

「残る?」

「お前の展示は、終わったあとに残らない」

「撤去のこと?」

「違う。話した本人の前に、お前は残らない」


 言葉にすると、ようやく輪郭が出た。

「理人が潰れそうでも、真帆が苦しくても、お前は“必要な編集だった”で先に進む。物語にするなら、そのあとも引き受けろ」

「引き受けてるつもりよ」

「つもりだろ」

 ひかりが言う。

「痛い目を見た本人の横に座って、同じ空気吸ってから言え」


 会場の空気が固まる。星名は初めて少しだけ、言葉に詰まった。

 理屈では返せる。けれど、彼女はたぶん、そこに座って残ることをしてこなかった。

 整え、並べ、意味を与え、先へ進む。その技術の先に、遅い時間を持っていなかった。


 教師側がようやく介入しようとしたとき、上条が前へ出た。

「展示は一時中断する」

 ざわめきが広がる。

 広報担当が抗議し、生徒会の一部が顔をしかめる。だが、もう止まらなかった。

 真帆が自分の言葉で立ち、理人が自分の責任で頭を下げ、ほかの生徒も“美談の続き”を喋り始めた以上、この展示はもう同じ形では続けられない。


 中断が決まったあとも、片づけは長かった。パネルを外す。キャプションを剥がす。印刷物を仕分ける。誰かが泣く。誰かが黙る。誰かが「でも意味はあったと思う」と言う。それを、否定もしきれない。物語にしたことそのものが全部悪ではないからだ。悪いのは、終わったことにして先へ行く速さだった。


 僕らはまず真帆のところへ行き、次に理人のところへ行き、そのあとでやっと教師の質問へ応じた。順番を変えない。それだけで、以前の僕らとは少し違う。

「真壁」

 上条が廊下で呼び止める。

「今日のやり方は非効率だ」

「知ってます」

「でも、たぶん必要だった」

 その“たぶん”が、教師側の精いっぱいなんだろうと思う。全部は変わらない。でも、少なくとも一人は今日の意味をわかっている。


 撤去作業は想像以上に地味だった。テープを剥がし、パネルを寝かせ、資料を箱へ戻す。さっきまで理念でぶつかっていた相手とも、ガムテープの端を押さえるために同じ位置へ立つ。そういう地味さが、僕は嫌いじゃない。

 星名も最後まで残った。無言で作業し、時々理人へ指示を出し、真帆とは距離を取る。その距離の取り方だけが、今日初めて少しまともに見えた。理解したわけじゃない。ただ、痛みが“編集されずに残る”感覚に、ほんの少しだけ触れたのかもしれない。

「真壁先輩」

 片づけの途中で、星名が言った。

「今日のこれは、効率は悪い」

「知ってる」

「でも、記録としては前よりずっと本物ね」

「それも知ってる」

 星名はそれきり黙った。和解ではない。でも、全部を言い切らない沈黙が残ったこと自体は前進だった。

 理人は撤去作業の最後まで残った。段ボールを抱えたまま、何度も「すみません」と言いそうになっては飲みこむ。ひかりが最後に言う。

「謝るの、今日はそれでいい」

「……はい」

「“はい”便利に使うな」

 理人はそこで初めて、少しだけまともに笑った。

 真帆は帰る前に僕のところへ来た。

「真壁先輩」

「なに」

「今日、たぶん初めて、自分で言えました」

「うん」

「まだ苦しいです」

「うん」

「でも、それでよかった」

 以前なら、その言葉に僕は安心したかもしれない。今は違う。よかった、で閉じない。苦しいまま残る。そこから先も続く。だから僕は、安心の代わりに言う。

「また言えばいい」

 真帆は少し驚いて、それから頷いた。


 夜、展示室に最後まで残ったのは、僕とひかりと理人、そして少し遅れてやって来た星名だった。誰ももう争う顔はしていない。疲れきった顔だけがある。

「終わった?」

 星名が言う。

「終わってない」

 ひかりが返す。

「片づいただけ」

 星名はパネルの外れた壁を見ていた。

「あなたたちのやり方、非効率ね」

「知ってる」

「でも、今日だけはたぶんこれしかなかった」

 僕が言うと、星名は少し黙った。

「……残るの、こんなに面倒なんだ」

 それは反省というより、発見に近い声だった。

「でしょ」

 ひかりが言う。

「だから最初から勝手に綺麗にするなって言った」

 星名は小さく息を吐いた。完全に変わるわけじゃないだろう。でも、今日初めて彼女は“編集のあとに残る時間”を知った。


 理人が帰り、星名も去ったあと、展示室には僕とひかりだけが残った。白い壁、外されたパネルの跡、養生テープの切れ端。勝利の絵じゃない。けれど、たぶん今の僕らにはこっちのほうが似合っていた。

「湊」

「なに」

「ノート」

 鞄から取り出す。ひかりが覗き込む。

「今日は書く?」

「書く」

「結末?」

「違う」

 僕はペンを持った。

「続き」

 そう言って、ノートではなく、持ってきていた小さなノートPCを開く。

 新規ファイル。白い画面。カーソルが点滅する。


「タイトル、決まった?」

 ひかりが聞く。

「まだ」

「じゃあ、これ」

「なに」

「救ったあとも、そこに残る」


 少し考えてから、そのまま打ち込んだ。言葉にしてしまうと、不思議なくらい迷いが減った。

「次はもっと面倒だね」

 ひかりが窓の外を見ながら言う。校庭の隅では、まだ後夜祭の片づけが続いている。

「たぶんな」

「でも」

「うん」

「今度は、最初から最後まで一緒でしょ」


 僕は一瞬だけ考える。少し前なら“共犯”と答えたかもしれない。今日は、別の言葉が先に来た。

「……責任者かな」

 ひかりが笑う。

「いいね、それ」

「お前が言ったんだろ」

「採用されたから満足」


 家に帰って、PCを開き直す。新しいファイルのタイトルは、さっきのままだ。

『救ったあとも、そこに残る』


 本文の一行目を書く前、投稿サイトの通知が一つだけ増えているのに気づく。

 新作に、匿名コメント。


『学校の外にも、相談したい人はいます。

 次は、どこまで来ますか。』


 画面の白さが、少しだけ遠く感じた。

 学校の中だけで終わらない。たぶん次は、外へ行く。

 それでも今は、少しだけ息ができる。


 今日、僕らは“解決した”んじゃない。残ることを始めただけだ。

 

 そう思って、ようやく本文の一行目を打ち込んだ。

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