第3章 第9話 感謝されることが、いちばん逃げ場をなくす
白石真帆が戻ってきた翌日、学校は何事もなかった顔をしていた。
ホームルーム。出席確認。小テスト。黒板に書かれる日付。そういう普通のものが、かえって残酷に見える日がある。真帆は登校していた。机に座り、周囲へ心配かけましたと頭を下げている。誰も責めない。誰も怒らない。優しい声ばかり飛ぶ。その優しさが、彼女をもう一段深く追い詰めていることに、気づく人は多くない。
僕は一限の途中から、ほとんど授業が頭に入らなかった。ノートを開いても、結末案という見出しを書く気になれない。書けばまた、何かをうまく畳もうとしてしまいそうで気持ち悪かった。
昼休み、ひかりは真帆の教室へ行き、十分後に戻ってきた。
「どうだった」
「笑ってた」
「うん」
「最悪」
短い会話だった。ひかりはそれ以上言わない。僕も聞けない。
放課後、真帆に頼んで、学校の裏門近くの小さな公園まで一緒に歩いた。昨日よりは顔色がある。あるからといって安心できるわけじゃない。
「昨日のこと」
僕が切り出す。
「はい」
「怒ってない?」
聞いてから、自分で馬鹿な質問だと思った。真帆は案の定、すぐ首を振る。
「怒る理由がないです」
「あるよ」
ひかりが言う。
「助けられたあと、さらに苦しくなった」
「でも、それは私が弱いからで」
「そうやって自分に戻すな」
ひかりの声が、少しだけ強くなる。
「わたしたちも悪い」
真帆は目を見開いた。たぶん、そういう返事は想定していなかった。
しばらく沈黙が落ちる。公園の砂場には誰もいない。風だけがフェンスを鳴らしている。
「私、ちゃんと感謝してるんです」
やがて真帆が言う。
「ほんとに、助かったんです。代表のことも、展示のことも、あのままだったら無理だったから」
「うん」
僕が答える。
「だから余計に」
そこで真帆は少し息を詰めた。
「余計に、まだ苦しいって言いにくくて」
その一言が、ようやく僕の中に真っ直ぐ落ちてきた。恨まれていれば、まだ説明できる。怒られていれば、反省の方向もある。感謝されているからこそ、自分が何をしたのかが輪郭を持ってしまう。
ひかりは真帆の隣に座る。ベンチが少し軋む。
「ねえ」
「はい」
「助けられたあとも、しんどかったら、しんどいって言っていい」
「でも」
「その“でも”いらない」
「……」
「礼を言ったあとに、まだ嫌だって言っていい」
真帆は唇を噛んだ。目元が少しだけ赤くなる。でも泣かない。泣けないのだと思った。周囲に“ちゃんとしてる人”として見られすぎた人は、泣く順番まで後ろにずれる。
帰り際、真帆は僕に向かって言った。
「真壁先輩」
「なに」
「先輩、たぶん、ちゃんと考えてくれたんですよね」
返事に詰まる。
「はい」
「それ、わかってます」
それが一番きつかった。
「でも、考えてもらったあと、私はどこへ立てばいいか、わからなくなっただけで」
きれいすぎる言葉だった。きれいすぎて、刃物みたいだった。
そのあと、理人と会った。図書室前の廊下。彼は前より明らかに疲れた顔をしていた。
「白石さん、どうでした」
「お前はどう思う」
「……自分が始めたことの、先に行きすぎた感じがします」
「感じ、じゃない」
ひかりが言う。
「行ってる」
理人は素直に頷いた。
「僕、最初は本当に、小さい揉め事を少し言いやすくしたかっただけなんです」
「知ってる」
「でも、うまくいくと、もっと使えるって思っちゃう」
そこは正直だった。
「先生も止めないし、先輩たちも助かったって言うし、だったら続けてもいいのかなって」
「続けた結果が今だ」
僕が言う。理人は目を伏せた。
「真壁先輩」
「なに」
「どうしたらよかったんですか」
その問いに、僕はすぐ答えられなかった。少し前までの僕なら、“ここで止めるべきだった”“そこは名前を返すべきだった”と整理して言えたと思う。今は、その整理自体が人を追いつめる気がした。
「……まだ、わからない」
理人は驚いた顔をした。僕がそう答えるとは思っていなかったのだろう。
「でも」
ひかりが続ける。
「わからないまま、続けんな」
理人はゆっくり頷いた。
その夜、生徒会は創立記念展示を前倒しすると発表した。星名の判断だった。真帆の件で学校全体が不安定になる前に、“支え合いの記録”を前に出して空気を押さえる。そういう発想だとすぐわかった。
「最悪のタイミング」
ひかりが言う。
「狙ってる」
「うん」
「真帆の件も飲み込んで、“学校は再生する”の物語に変える気だ」
僕が言うと、ひかりは珍しくすぐに返事をしなかった。
翌日、展示予定の資料の一部を理人が持ってきた。匿名相談の要約、和解事例、進路の乗り越え、部活の立て直し。見出しだけ見れば美しい。内容を知っていると、どれも痛みの上に置かれた札に見える。
「これ、出すの?」
ひかりが呆れたように言う。
「理人、止めて」
「止めたいです。でも、もう僕だけの範囲じゃない」
そこへ、理人が言いにくそうに続けた。
「先生方の一部も、“この企画で学校の空気が落ち着くなら”って言ってます」
調整会はもう、生徒だけの遊びではなくなっていた。
放課後、僕とひかりは真帆をもう一度訪ねた。今度は家の近くのコンビニ前。彼女は僕らを見て少し困ったように笑う。
「また来た」
「来る」
ひかりが言う。
「しばらく」
真帆は少し黙ってから、視線を落とした。
「それ、助かります」
素直な言い方だった。感謝の形をした防御ではなく、本当に今は誰かにいてほしいのだとわかった。
その帰り道、ひかりがぽつりと呟く。
「わたしたち、解いて終わる側に戻れないね」
「うん」
「もう“犯人はこいつでした”で拍手される話じゃない」
「そもそも前から、拍手はなかっただろ」
「気分の話」
ひかりはフェンス越しの暗い校庭を見た。
「残るしかない」
その言葉に、僕も頷くしかなかった。
真帆が戻ってきた日、放課後の教室には人が多かった。用事もないのに残るやつ、励ますタイミングを探すやつ、そっと見守る顔をしたまま気配だけ増やすやつ。善意の人だかりは、悪意の人だかりより扱いが難しい。
ひかりは廊下の窓枠に背を預けて、それをじっと見ていた。
「入らないの」
僕が聞く。
「今は入ると、わたしたちまで“支える側”になる」
「もうなってる気もするけど」
「そういう肩書きじゃなくて」
言って、ひかりは教室の中の真帆を見る。
「白石さん、いま“支えられてる人の顔”してる」
僕も見る。たしかにそうだった。相手を安心させるための笑い方。礼を言う角度。会話の終わり方。全部が丁寧で、全部が苦しい。
そのあと、理人がやって来た。以前よりさらに顔色が悪い。
「白石さん、戻ってよかったですね」
「その言い方しかないの」
ひかりが低く言う。
「え」
「“よかった”って、誰にとって」
理人は答えに詰まる。僕はそこで、理人がまだ“良い結果”という言葉にしがみついているのがわかった。そこから落ちたら、自分がやってきたこと全部を見直さなきゃいけないからだ。
「お前、白石と話した?」
「少しだけ」
「何て」
「ありがとうございます、って」
理人の顔がわずかに歪む。感謝されることは、免罪符じゃない。むしろ逃げ道を消す。そこまでたどり着けるかどうかが、理人の境目だった。
「理人」
僕は初めて、先輩後輩じゃない声で呼んだ。
「礼を言われたときほど、自分のしたこと疑え」
理人は何も返せなかった。
夕方、真帆を図書室へ呼んだ。人が少なく、言葉が机に吸われる場所のほうがいいと思ったからだ。ひかりは最初から“励ます顔”をしなかった。そこが良かった。
「白石さん」
「はい」
「今日、笑うの大変だった?」
真帆は少しだけ目を見開いてから、困ったように笑った。
「……はい」
「よかった」
ひかりが言う。
「よくはないでしょ」
「でも、やっと疲れてるって顔した」
真帆の目元が少しだけ崩れる。泣く手前の顔だった。
「私、助けてもらったの、分かってるんです」
「うん」
「だから、戻らなきゃって思いました」
「うん」
「でも、戻ったら、今度は“ちゃんと救われた人”でいなきゃいけない気がして」
ひかりはそこで何も言わなかった。僕も言えない。言えるのはたぶん、今はここまでだ。
代わりに僕は言う。
「次、誰かに礼を言う前に、疲れたって言え」
真帆は少しだけ考えてから、頷いた。約束としては小さい。でも今は、その小ささを笑う時期じゃない。
真帆が学校へ戻ったあとも、すぐに普段通りにはならなかった。昼食の輪ができるたびに、誰を誘うかで空気が揺れる。優しさが重いとき、人はその重さを測る言葉を持たない。
ひかりは珍しく、自分から真帆を昼へ誘わなかった。代わりに、同じクラスの一番口数の少ない女子へ一言だけ言った。
「今日、白石さんと図書室どう?」
その子は驚いたあと、少し考えて頷いた。目立つ中心じゃなく、静かな横へ真帆を戻す。その程度の調整なら、僕らがやってもまだ許される気がした。
あとでその子が言う。
「一ノ瀬先輩って、前はもっと“自分で来い”って感じでしたよね」
「どういう観察だよ」
僕が返すと、ひかりは横でそっぽを向く。
「成長したの」
「自分で言うな」
でも本当に、少しずつ変わっている。前なら真ん中へ引っ張った。今は、本人が息をしやすい位置を探す。正しさより先に、呼吸の場所を見る。それはたぶん、湊が隣にいるからだけじゃなく、ひかり自身が一度落ちたからだ。
理人は帰り際、僕らへ深く頭を下げた。
「僕、まだ何をどう直せばいいか、ちゃんとわかってません」
「うん」
「でも、わからないまま“よかった”って言わないようにはします」
ひかりはそれを聞いて、
「最低限それ」
とだけ返した。厳しい。でも、前より少しだけ待つ言い方だった。理人を“失敗した模倣者”で固定しないための、ぎりぎりの温度だった。
ノートの見出しを書けない夜は、たいてい自分の癖が嫌いになる。けれど今回は、嫌いになるだけで終わらせたくなかった。
廊下の窓に映る自分の顔は、少し前よりひどかった。でも、そのひどさを見たまま歩けるなら、まだ戻れる気もした。
真帆と別れたあと、ひかりは珍しく自販機の前で立ち止まった。
「湊」
「なに」
「今日、“良かった”って一回も言ってない」
「言えなかった」
「うん」
ひかりはコーンスープの缶を見つめたまま続ける。
「でも、それでいい。変に救った顔してるより、今日のほうがまし」
その評価が、思っていたより胸に刺さった。僕はずっと“結果を出せないなら無能”のどこかで考えていたのかもしれない。けれど今日必要だったのは、結果ではなく、その場から逃げないことだった。
「ひかり」
「なに」
「お前、最近ちょっとだけ言い方がまともになった」
「最悪。褒め言葉として受け取らない」
そういうくだらないやり取りを一回挟めただけで、息が少し戻った。
家に帰って、ノートを開く。今日は書かないつもりだった。けれど、開かないと眠れなかった。
――感謝されることが、いちばん逃げ場をなくす。
――恨まれたら謝れる。感謝されると、何を返せばいいかわからない。
そこまで書いて、さらに一行足した。
――“解決したあとも残る”を、たぶん次は方法ではなく覚悟にしないといけない。
深夜、布団に入っても眠れず、スマホの画面だけが白く浮いた。未読のメッセージはひとつ。ひかりからだった。
『明日、展示の資料ぜんぶ見る』
短い。けれど、それだけで十分だった。僕は返す。
『見る。そのあとで壊すか残すか決める』
既読がつくまでがやけに長く感じた。しばらくして返ってきたのは、たった一行。
『決めるの、今度は一人でやるな』
画面を見たまま、少しだけ息が抜けた。たぶん僕はまだ、ひとりで“よりまし”を選ぶ癖をやめきれていない。だから言われたのだと思う。
翌朝、ノートを開いたままの机を見て、ようやく気づく。
結末を書くことより先に、誰と立つかを決めないと、また同じところへ行く。
そう思ったのは、たぶん初めてだった。
まだ、遅くはない。 そう思った。 少し。




