第3章 第8話 最善に見えるやり方が、いちばん深く刺さる
“いちばんましな形”を考えるのは、たぶん癖だ。
代表スピーチを共同宣言へ切り替え、真帆の個人負担を減らし、企画自体は壊さない。教師も生徒会も受け入れやすく、真帆も表面上は救われる。そこまで考えた時点で、僕は少しだけ安心していた。安心したこと自体が、あとから最悪に思えた。
共同宣言の初回打ち合わせはうまくいった。
生徒会の三人と真帆が並び、個人の“感動話”ではなく、支え合いを抽象度の高い言葉に逃がす。
真帆はまだ緊張していたが、少なくとも壇上でひとり立たされるよりはましだった。
終わったあと、彼女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
ひかりが眉をひそめる。
「礼が早い」
「でも」
「でも禁止」
そう返しながらも、ひかりの声は前より強くなかった。
その日の帰り、真帆は昇降口で僕を待っていた。
「真壁先輩」
「なに」
「これ、少しだけ楽になりました」
「そっか」
「私、ちゃんとできるようにします」
そう言って笑う。頬に力が入りすぎている笑いだった。僕はそこで違和感を覚えたのに、言葉にできなかった。楽になった、ではない。**うまくやれる形を渡された**という顔だった。
翌日、練習はさらに“良く”なった。真帆は自分の負担を減らされたぶん、生徒会の文章を整え、教師への報告まで引き受け始めた。周囲は「白石さんがいて助かる」と口々に言う。
誉め言葉が増えるたび、僕の胸のあたりが少しずつ重くなる。
「湊」
ひかりが放課後の廊下で言った。
「この前より、白石さん、きつそう」
「うん」
「でも前より笑ってる」
「うん」
「最悪」
ひかりは言い切った。
「助けられた側が、助かった顔を頑張り始めるときが一番やばい」
そこで僕は、ようやく昨日の違和感に言葉がついた。
真帆の机を見に行くと、共同宣言の下書きの横に、細い字でやることリストが書いてあった。
『生徒会案の清書』
『担任へ説明』
『写真選定のお礼』
『母に帰宅遅い連絡』。
助けてもらったから、期待に応えなきゃ。そういう順番の字だった。
その夜、僕はノートに三つの案を書いた。一つ目、共同宣言もやめる。二つ目、真帆の負担をさらに減らし、裏方へ回す。三つ目、生徒会と教師の前で、共同宣言の役割そのものを解体する。どれも傷が出る。けれど一つ目は学校側が飲まない。三つ目は真帆に新しい敵を作る。僕は結局、二つ目を選んだ。
翌日の昼、真帆へその案を伝える。スピーチに名前は残るが、実際に壇上に立つのは生徒会長。真帆は構成協力という形で一歩下がる。顔を出さずに済むぶん、負担は減る。
「どうかな」
僕が聞くと、真帆は一瞬だけ目を見開いた。それから、いつもの丁寧すぎる声で言った。
「すごく、ありがたいです」
その瞬間、ひかりが僕を見る。僕もわかっていた。その“ありがたい”が危ないのだと。でも、ここで覆す材料もなかった。
星名は案を聞いて少しだけ悔しそうな顔をした。
「ずいぶん薄めたわね」
「薄めるためにやってる」
「白石さんの言葉が、一番効くのに」
「効くから外す」
「効かない展示に意味ある?」
「人が壊れる意味よりはある」
ひかりが言う。星名は肩をすくめた。
「じゃあ、真壁くんの結末案ってことにしておく」
その言い方に棘があった。僕は黙ったまま資料を受け取る。
共同宣言の修正版は、その日のうちに通った。教師も喜んだ。生徒会も安心した。理人まで、『いちばん穏当ですね』と送ってきた。穏当。たぶん、その言葉を信じたかったんだと思う。
事件が起きたのは、その日の夜だった。
真帆が帰宅していない。母親から学校へ連絡が入り、担任経由で僕のスマホへも連絡が来た。
嫌な予感はすぐ現実になった。真帆の机の中には、折りたたんだメモが一枚だけ入っていた。
『ありがとうございました。
ちゃんと、いい終わり方だったと思います。』
そこで僕は、頭の中が一度まっ白になった。いい終わり方。僕が選んだ言葉だ。少なくとも、選んできた言葉の骨組みだ。被害を少なくし、学校を荒らさず、本人の負担を下げる。“いちばんまし”に見える終わらせ方。その結果、本人はそこから消えた。
ひかりはメモを奪うみたいに読んで、すぐに僕を見た。
責めるわけでも、慰めるわけでもない顔だった。だから余計にきつい。
「探す」
それだけ言う。
「うん」
自分の声が驚くほど薄かった。
真帆が行きそうな場所を洗い出す。図書室、駅前、バイト先、河川敷、記念館の裏手。理人も来た。生徒会の数人も動く。学校全体が善意で動き始める。善意が多いほど、僕は吐きそうだった。善意でここまで来たのだ。
駅前のベンチにはいない。バイト先にも来ていない。河川敷にも鞄はない。ひかりは走るように場所を変え、そのたびに僕へ現在地を送る。僕は地図アプリを見ながら、真帆が“ひとりでいても怒られにくい場所”を考えた。公園より、閉館前の市立図書館。騒がしくない、でも完全な失踪には見えない場所。
閉館三十分前、市立図書館の二階閲覧席で、真帆は見つかった。参考書を開いていた。信じられないくらい普通の姿勢だった。ひかりが最初に近づいても、彼女は驚かなかった。
「来ると思ってました」
その声が、やけに静かだった。
「帰るよ」
ひかりが言う。
「はい」
真帆は従順に頷く。
「なんで」
ひかりの声が少しだけ揺れる。
「なんで、こんなタイミングで消えるの」
真帆は膝の上で指を組んだ。
「いなくなったほうが、きれいかなって」
それを聞いた瞬間、僕の身体のどこかが冷え切った。きれい。終わり方。全部、僕が選び続けてきた方向へ寄った言葉だった。
図書館の外のベンチで、真帆はぽつりぽつりと話した。
「代表を外してもらって、楽になりました」
「うん」
「でも、楽になったぶん、ちゃんとしなきゃって思って」
「誰に」
僕が聞く。
「みんなに。学校に。真壁先輩にも」
ひかりが息を飲む。
「私、助けてもらったんですよね」
真帆は続ける。
「それなのに、まだ苦しいって言ったら、失礼な気がして」
その言葉に、僕は何も返せなかった。感謝されている。責められていない。だからこそ逃げ場がなかった。
ひかりが真帆の隣に座る。珍しく、すぐには言葉を出さなかった。しばらくしてから、小さく言う。
「礼、いらないって言ったのに」
真帆は少し笑った。涙は出ていない。でも、たぶんそれが一番危ない。
「すみません」
「それも禁止」
「はい」
「“はい”も便利に使うな」
ひかりの声が少しだけ割れる。怒っているのに、怒りの向きが定まっていない。
結局その夜、真帆は家に帰った。帰らせるしかなかった。学校も家も、今の彼女にとっては安全でも危険でもある。それでも、そこにしか戻る場所がない。
帰り道、ひかりは何も言わなかった。駅前の横断歩道でようやく口を開く。
「湊」
「なに」
「今の、“ありがとう”って言われるの、いちばんきついね」
「……うん」
「怒ってくれたほうが、たぶん楽だった」
「うん」
それだけで終わる。続きの言葉を、僕は持っていなかった。
共同宣言案が通ったあと、僕は一度だけ安心した。真帆がひとりで壇上へ立たない。教師も生徒会も、企画を壊されたとは思わない。ひかりだって、全面的ではないにせよ止めはしなかった。
これ以上ない折衷案に見えた。
だから、その安心がいちばん悪かった。
打ち合わせの帰り、真帆は昇降口で僕を待っていた。今思えば、その時点でおかしかった。感謝を伝えたい人の顔ではなく、確認したい人の顔だったのだ。
「真壁先輩」
「なに」
「私、これで大丈夫ですよね」
質問の形をしていたけれど、答えはもう決めているみたいな声だった。
「大丈夫、って?」
「みんなの邪魔にならないですみますよね」
その一言で、本当は全部わかるべきだった。僕が作った“ましな形”は、真帆にとって救いではなく、“迷惑を最小化するふるまい方”の新しいマニュアルになっていた。
「白石」
呼び止めたけれど、言葉が遅かった。
「楽になる形のつもりだった」
「はい」
「でも、お前が楽かどうかは」
「先輩、優しいです」
その返しが、一番だめだった。優しいと受け取られた時点で、僕の組み方は相手の内側まで届いていない。届いていないのに、届いたことになってしまう。
その夜、ひかりから電話が来たのは、僕がノートの前で固まっていたときだった。
「今どこ」
「家」
「白石さん、出た」
「……うん」
「知ってた?」
「気づいてたのに、拾いきれなかった」
受話口の向こうで、ひかりが一度だけ強く息を吸う音がした。責めると思った。けれど違った。
「わたしも」
「え」
「わたしも、あそこで“嫌だ”って思ったまま止まった」
ひかりは自分の非を滅多に言い直さない。だから、その一言が思った以上に重かった。
「湊」
「なに」
「今から探す」
「うん」
「でも、見つけたあと、“助けた”顔したら殴る」
こんな時でもその言い方をする。少しだけ笑いそうになるのを、喉の奥で止めた。
「しない」
「ならいい」
電話が切れたあと、部屋の静けさが戻る。
僕はノートを見た。見出しだけが浮いている。そこに続く言葉が出ない。
結末を考えることが、急に卑怯に見えた。うまく畳むことばかり考えて、相手が何を失うかを“後から対応できるもの”として扱っていたんじゃないか。
そう思うと、手が動かなくなる。
真帆を探して見つけたのは、駅から二つ先の小さな公園だった。ベンチに座って、膝の上へ手を重ねている。泣いてはいなかった。泣いていないことのほうが、かえってまずい顔だった。
ひかりは走らなかった。駆け寄ると“見つけた側”と“見つけられた側”に分かれてしまうからだ。僕らは少し離れたところで立ち止まり、真帆のほうが見上げるのを待った。
「来ると思いました」
真帆が言う。
「うん」
「怒ってます?」
「怒ってる」
ひかりが答える。
「誰に」
「全部に」
真帆はそれで少しだけ笑いそうになって、結局笑えなかった。
ベンチの端へ腰を下ろしたあとも、僕はしばらく何も言えなかった。ここで“連れ戻す”方向へ言葉を使うと、またきれいな終わり方になる。そうじゃない時間が必要だった。
結局ひかりが先に言う。
「帰らなくてもいい。今は」
真帆の肩が少しだけ下がる。その一瞬で、どれだけ“戻るべき人”をやらされていたかがわかった。助けるって、本当はこういう一拍を作ることのほうかもしれない。そう思ってしまうくらい、僕の“ましな結末”は近道ばかりだった。
公園からの帰り道、ひかりは珍しく前を歩かなかった。真帆の半歩後ろ、僕の半歩前。誰かを引っ張る形にしないための位置だった。
駅前の信号で、真帆がふと立ち止まる。
「私、戻ってもいいですか」
「今は決めなくていい」
僕が言うと、ひかりもすぐ続けた。
「でも、戻るなら“ちゃんと救われた顔”はしなくていい」
真帆はそれを聞いて、やっと少しだけ肩の力を抜いた。
あの一歩だけでも、今日来た意味はあったと思いたかった。
真帆を見つけた帰り、僕らは誰も“解決した”と言わなかった。その一言を置かなかったことだけが、今夜の唯一まともな判断だった。
部屋へ戻ってからもしばらく、真帆の『大丈夫ですよね』が耳に残った。安心を与えたつもりで、安心しなければならない役を増やしただけだったのかもしれない。
翌朝、真帆からは連絡がなかった。既読もつかない画面を前にして、僕は何度もスマホを伏せた。連絡を重ねるたびに、こちらが“戻ってくるべき場所”を押しつける気がしたからだ。ひかりはその判断に口を出さなかった。ただ、出さない代わりに、夕方まで一度も僕を一人にしなかった。教室を出るときも、図書室へ行くときも、コンビニに寄るときさえ半歩横にいた。その距離が、慰めよりよほど効いた。
家でノートを開く。見出しを書こうとして、手が止まる。三十分くらい、何も書けなかった。ようやく絞り出したのは、一行だけだった。
――“いちばんましな結末”が、人を追いつめることがある。
それだけ書いて、ノートを閉じた。これ以上書く資格が、自分にあるのか、少しわからなくなっていた。




