第3章 第7話 真帆は、助けられる側をやめられない
白石真帆が倒れたのは、記念祭代表スピーチの通し確認のときだった。
体育館の壇上。マイク。薄い蛍光灯。
生徒会役員と担当教師だけがいるはずの場で、真帆は最初の三行をきちんと読んだ。
『支えてくれた人たちに感謝します』。そこまでは、ひどく真帆らしい、模範的な声だった。
四行目に入る前、彼女の息が途切れた。
「白石?」
教師が立ち上がるより早く、真帆はマイクから半歩離れた。紙を持つ手が震える。
次の瞬間、息が入らなくなったみたいに、喉がひくっと鳴った。
ひかりは駆け上がる。僕はその一歩遅れで壇上へ上がり、教師と生徒会を遠ざけた。
「見ないで」
ひかりが短く言う。こういうときのひかりは迷わない。
真帆を床に座らせ、背中を壁へつけ、手首を握って呼吸だけを整える。
「四つ吸って、六つ吐く。できなくてもいい。吐くほう長く」
「……っ」
「聞けてる。えらい」
雑に見えて、ちゃんと相手の耳に届く声だ。
僕は周囲へ『今は一回外してください』と頭を下げつつ、担当教師を体育館の外へ出した。
十分ほどして、真帆はようやく呼吸を取り戻した。
なのに最初に出た言葉は、
「すみません」
だった。
ひかりの眉がぴくりと動く。
「それ、禁止」
「でも」
「でもじゃない。倒れたあと最初の一言で謝るな」
真帆は、泣きそうなのに泣かない顔で笑った。
「癖なんです」
「知ってる。だからやめろって言ってる」
帰りの階段で、ひかりは怒っていた。誰かに向ける怒りというより、居場所を失った怒りに近い。
「もう無理」
「何が」
「代表」
「真帆?」
「違う。真帆にやらせるのが」
わかっていた。わかっていたけど、僕はすぐには頷けなかった。
「今外すと、“逃げた”って物語がつく」
「今続けると、壊れる」
「壊れないように形を変える」
「またそれ」
ひかりが振り返る。目が強い。
「湊、最近そればっかり」
「仕方ないだろ。学校全体が動いてるんだ」
「だからって、本人が倒れてるの見たでしょ」
「見たよ」
「じゃあなんで、まだ残す方向から考えるの」
「真帆がこの学校で生きるからだよ」
思ったより強い声が出た。ひかりが一瞬だけ黙る。
「今ここで全部ひっくり返したら、真帆だけが“面倒を起こした人”で固定される」
「でも」
「わかってる。わかってるけど、それでも今は切り方を考えるしかない」
ひかりは唇を噛んで、とうとう壁を拳で軽く叩いた。
「それが、嫌なんだよ」
そこで会話は切れた。
翌日、真帆は普通に登校した。普通すぎて、逆に危なかった。
ホームルーム前に周囲へ『昨日はすみません、ちょっと立ちくらみで』と笑っている。
倒れたことまで、自分で丸くする側に回っている。
僕は一時間目のあとで真帆を中庭へ呼び出した。ベンチの周りにはまだ朝の湿り気が残っている。
「昨日のこと、どうしたい」
「どうしたい、ですか」
「代表、降りたいなら降りるって言っていい」
真帆はすぐには答えなかった。落ち葉の端を靴で少し押しやってから、小さく言う。
「降りたら、みんな困りますよね」
「みんな、ね」
「……はい」
「真帆は」
「私は」
そこで言葉が詰まる。ひかりがいれば、たぶん“自分の話しろ”と切るだろう。僕は少し待った。
「怖いです」
やっと出る。
「でも、ここで降りるのも怖いです」
「うん」
「だったら、どっちがましか、考えるしかないじゃないですか」
その言い方が、僕には痛かった。真帆まで、僕の考え方に寄っている。
よりましを選ぶ。最小被害を選ぶ。その発想の先に追い詰められているのに。
放課後、ひかりは単独で星名へ会いに行った。僕が追いついたときには、もう会話が始まっていた。
「白石さん、降ろす」
「本人がそう言った?」
「言えないんでしょ」
「ならあなたが代わりに言うの?」
「言う」
「それで一瞬は救われるかも。でもそのあと、“一ノ瀬が壊した企画”って残る」
ひかりが息を飲む。星名はそこを逃さない。
「あなた、正しいことを言うのはうまい。でも、学校の記録はあなたの感情で止まらない」
「感情じゃない」
「じゃあ何」
「本人が倒れた」
「一回」
「一回で十分」
「学校はそう動かない」
ひどく冷たい会話だった。ひかりが珍しく、言葉を重ねられずにいる。
「そこまで」
僕が割って入る。
「湊」
ひかりの声には怒りと、少しの安堵が混ざっていた。
「星名、代表スピーチそのものを変える」
「どうやって」
「真帆一人で“乗り越えた話”をしない形に」
「何人も出すの?」
「違う。記念祭の開始宣言を、生徒会と合同にする。個人の物語じゃなく、“今ここにいる人たちの声”へ寄せる」
「薄まるわね」
「薄めるんだよ」
僕は言った。
「今必要なのは、鮮やかさじゃない」
星名は不満そうだったが、教師側へ通しやすい案でもあった。個人展示は残し、代表スピーチだけを“共同宣言”に変更する。真帆の負担を減らしつつ、企画自体は壊さない。僕はその場ではそれが最善に見えた。
ひかりは生徒会室を出たあと、廊下の窓際で足を止めた。
「それで、ほんとにいい?」
「完全じゃない」
「知ってる」
「でも今は、あれがいちばん被害が少ない」
「被害、ね」
ひかりはその言葉を繰り返した。
「湊、最近“救う”より先に“被害”って言う」
「そうしないと間に合わない」
「間に合わなくても、救いたいときはある」
その一言が、珍しくまっすぐ刺さった。
その夜、理人から連絡が来た。『白石さん、みんなにお礼を言って回ってます』。
想像できた。きっと真帆は、変更になったことすら“配慮してもらって助かりました”という顔で受け取る。そうするしかない位置にいる。
翌朝、真帆はたしかに笑っていた。『少し軽くなりました』『皆さんに気を遣わせてしまってすみません』。そのたびに、周囲は優しい顔になる。優しい顔が増えるたび、真帆の逃げ場は減る。
昼休み、ひかりは屋上の手前で座り込んでいた。珍しい。
「さぼり?」
「考え中」
「ひかりが座って考えるの、だいぶ珍しいな」
「うるさい」
風が強い。フェンスが鳴る。
「わたし、白石さん見ると、腹立つんだよね」
「誰に」
「全部に。本人にも、周りにも、自分にも」
「自分にも?」
「だって、昨日わたしは“やめろ”って言った。でも、そのあとどうするか、ほとんど考えてなかった」
僕は黙る。ひかりはそう続けた。
「お前みたいに考えろってことじゃない」
「うん」
「でも、止めた先まで見ないと、人は止められない」
そこまで言ってから、ひかりは僕を見た。
「だからって、お前がなんでも“ましな終わり方”にしようとするのも違う」
「……うん」
珍しく、同時に認め合うみたいな会話だった。
過呼吸の一件のあと、真帆は保健室で十分休んでから、自分の足で教室へ戻った。戻れたことを皆が褒める。先生も、クラスメイトも、生徒会も。褒められるたびに、真帆は少しだけ背筋を伸ばした。あれがいちばん危ない、と僕は思う。
人は“頑張れた自分”の形を褒められると、そこへ戻らなきゃいけない気がしてしまうからだ。
放課後、ひかりは保健室の前のベンチへ座りこんでいた。珍しく僕を見上げず、膝を抱えたまま言う。
「白石さん、戻っちゃったね」
「戻ったね」
「良かった、って顔してる人、多すぎ」
「うん」
「嫌い」
短いが、いつもより湿っている声だった。ひかりは自分が助けられなかったと感じると、怒るより先に黙る。僕はその黙り方を知っている。
そのまま二人で、真帆の教室の前を通った。中では、クラスメイトが代表原稿の清書を手伝っていた。蛍光ペン、付箋、言い換え候補。全部が親切で、全部が圧だった。真帆は笑っている。手元の原稿には「支えてくれた人たち」「感謝」「乗り越える」という単語が何度も出ていた。乗り越えてなんかいないのに。
「入る」
ひかりが言う。
「今?」
「今」
「止めても入る?」
「入る」
「なら、言い方だけ考えて」
「嫌」
「そこだけでいいから」
ひかりは一瞬だけ僕を見る。その顔で、だいぶ考えてくれているのが分かる。前よりましだ。前より面倒で、前より一緒に動いている。
教室に入ると、空気が止まった。真帆がすぐ立ち上がろうとするのを、ひかりが手で制す。
「座って」
「でも」
「立つと“ちゃんとしてる側”に戻るから」
クラスメイトたちがきょとんとする。僕は横から原稿を見た。
「これ、誰が直した」
「みんなで、少しずつ」
答えた女子は悪気のない顔をしていた。ひどいのは、みんな悪気がないことだ。
「じゃあ、一回全部抜こう」
僕が言う。
「“ありがとう”と“頑張る”を、一回消す」
「なんで?」
「本音じゃなくなってるから」
ひかりが続ける。
「今の白石さん、誰かを安心させる文章しか書けなくなってる」
それは残酷な言い方だった。でも、たぶん必要だった。
真帆は長い沈黙のあと、小さく言った。
「……私、自分が苦しいって書いたら、応援してくれてる人に失礼かと思ってました」
「失礼だよ」
ひかりが言う。
「でも、それでいい。失礼になっても、先にお前のほうが本物じゃないとだめ」
教室の空気がざらつく。僕はそこで、あえて誰も否定しない時間を少し長めに取った。
急いで丸くしない。今はそこが一番大事だと思った。
結局、その日は原稿づくりを中断した。真帆は帰り際、教室の扉のところで振り返って言った。
「今日、初めて“行きたくない”って思ってる自分が嫌じゃなかったです」
その一言だけで充分だった。救えてはいない。でも、役から少し外へ出られた。その小ささを、前なら僕は“まだ足りない”と切っていたかもしれない。今は、それを足場にするしかない。
翌日、真帆の原稿は少しだけ変わっていた。「支えてくれた人たち」という主語のあとに、「でも、私はまだ途中にいます」という一文が足されていた。たったそれだけで、文章の呼吸が変わる。
ひかりはその紙を見て、「やっと本人」と言った。
「褒めてる?」
真帆が聞く。
「かなり」
「一ノ瀬先輩、褒めるの下手ですね」
「知ってる」
そのやりとりを見て、僕は少しだけ気が抜けた。こういう短い会話の中でしか戻れないものもある。
けれど同時に、廊下の向こうでは調整会の一年たちが新しい資料を運んでいた。真帆個人の呼吸が少し戻っても、周囲の“使いたがる空気”は止まっていない。だから、この話は一人を救えば終わる種類じゃない。ひかりも同じことを思ったらしく、笑った直後にすぐ顔を引き締めた。
「湊」
「なに」
「白石さんだけ助けても、次が来る」
「うん」
「じゃあ、次も残る」
その言い方は、決意というより確認に近かった。僕らはもう、助けるかどうかより、残るかどうかで話すようになっている。
夜、真帆から短いメッセージが届いた。
『原稿、書き直してみます。ありがとうじゃなくて、自分のことから始めてみます』
それを見て、ひかりはスマホを奪うみたいに覗きこみ、
「えらい」
とだけ言った。
「返信する?」
「しない。今は自分で書く時間」
その判断に、僕も頷く。支えるって、全部に返事をすることじゃない。返さないほうがいい瞬間を見誤らないことでもある。
原稿の書き直しは遅かった。でも、遅いまま進めるしかない話もある。ひかりがその遅さを急かさなかったのが、今日は一番よかった。
夕方の教室で、書き直した原稿を真帆が静かに折りたたむ。その手つきが朝より少しだけ本人に戻っていて、ひかりはそれを見て何も言わなかった。
その日の夜、ノートを開く。書いたのはたった二行だった。
――救うと止めるのあいだに、いつも“その後”が抜ける。
――抜けたまま手を出すと、人は優しさで追いつめられる。
ページを閉じる前、ひかりからまた短いメッセージが来た。
『次、わたしが先に走りそうになったら止めて』
僕は少しだけ考えて、返す。
『止める。その先まで一緒に行くなら』
返信はすぐだった。
『それでいい』




