表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/36

第3章 第5話 ひとりを象徴にすると、学校は動く

 白石真帆が最初に目立ったのは、本人の意思ではなかった。


 創立記念企画の準備が始まった週、生徒会から『困難を乗り越えた生徒の声を集める』というアンケートが回ってきた。家族の介護をしながら通学している者、遠距離通学で部活を続けている者、経済的事情を抱えながら成績を維持している者。学校の“良い話”を集めたいのだと、誰にでもわかる文面だった。


 ひかりはそのアンケートを読んだ瞬間に眉をしかめた。

「嫌」

「早いな」

「だって“困難を乗り越えた”って、現在進行形で困ってる人にも書かせる顔してる」

「その指摘はだいぶ鋭い」

「鋭くない。雑な善意が嫌いなだけ」


 真帆の名前が初めて出たのは、理人からだった。昼の図書室で、貸出返却の列が途切れた瞬間に、彼は何気ない声で言った。

「白石さん、展示の中心になるかもしれません」

「かもしれない、で済む顔じゃないな」

 僕が返すと、理人は困ったように笑う。

「本人も前向きです」

「その“前向き”は誰の言葉」

「……」

「本人?」

「たぶん」

「たぶんで象徴にするな」

 ひかりが切り捨てる。


 白石真帆は二年の別クラスで、成績は上位、部活は帰宅部、授業態度はまじめ。表面だけ見れば、何でもきちんとやる生徒だ。けれど、前から噂はあった。母親が長く働けず、本人も夕方はバイトに入っている。奨学金の書類のため、放課後によく職員室へ呼ばれている。本人はその話を一切しない。

 そんな子を、“努力の象徴”にする。

 嫌な予感しかしなかった。


 実際に会うと、真帆は写真で見るより柔らかい顔をしていた。

 図書室の窓際で参考書を閉じた彼女は、ひかりを見るなり少し笑う。

「一ノ瀬先輩って、ほんとに来るんですね」

「どういう意味」

「困ってる人がいると来るって、みんな言ってるから」

「それ、たぶん半分くらい悪口」

「でも助かる人も多いんですよね」

 その言い方が妙に完成されていて、僕は嫌な汗をかいた。

 誰かを安心させるための言葉を、もう持っている。


「記念企画のこと、どう思ってる?」

 僕が聞くと、真帆は参考書の端を揃えながら答えた。

「ありがたいです。学校が応援してくれるなら」

「“ありがたい”以外は」

「……まだ、わからないです」

「出た」

 ひかりが言う。

「いちばん危ない返事」

 真帆はきょとんとする。

「そうなんですか」

「そう。わからないなら、今は“わからないので保留”でいい」

「でも、せっかく声かけてもらって」

「それで受けると、あとでやめにくくなる」

 ひかりの言い方はきつい。

 でも真帆の表情は、そこで初めて少しだけ揺れた。


 その日の夕方、星名環は生徒会室で当たり前のように言った。

「白石さんは適任よ」

「何の」

 ひかりが聞く。

「象徴の」

「人に向かって言う言葉じゃない」

「企画の中心が必要なの。誰もがひとつの痛みを覚えて帰るより、“この学校で支え合えた”という像を持って帰るほうが意味がある」

「その像に真帆を使う」

「使う、じゃない。協力してもらう」

 言い換えだけがきれいだった。


 僕は展示のラフ案を見せてもらった。

 真帆の写真、短いインタビュー、担当教師のコメント、同級生の応援メッセージ。全部が整っている。

 整いすぎていて、本人の息遣いがない。

 何かを乗り越えた人の紹介ではなく、”乗り越えたことになっている人の配置”だった。


「真帆が嫌って言ったら」

 僕が聞く。

「もちろん外す」

 星名は答える。

「でも、あの子はそういう子じゃないでしょう」

 その一言で、ひかりが机に手をついた。

「どういう子?」

「頼まれたら引き受ける子。人を安心させる返事ができる子。だからこそ向いてる」

「向いてるんじゃない。逃げられないだけ」

「それを支えるのが学校でしょ」

 星名はまるで善意の説明をしているみたいな口調だった。


 翌日、真帆は廊下で二人の女子に囲まれていた。『白石さんすごいね』『尊敬する』『私だったら無理』。

 誉め言葉ばかりなのに、真帆の笑顔は少しずつ薄くなっていく。

 ひかりはその輪に割って入った。

「白石さん、来て」

「え」

「今すぐ」

 強引に連れ出す。僕は残っていた二人へ適当な言い訳をしながら追いかけた。


 非常階段で、ひかりは壁にもたれた真帆に水だけ渡した。

「……ごめんなさい」

 真帆が先に言う。

「なんで謝るの」

「みんな、善意だから」

「善意でも疲れる」

「でも、応えなきゃ」

「その“でも”がいらない」

 ひかりの声が、珍しく低くやわらかかった。

「白石さん、嫌?」

 真帆は答えない。

「嫌じゃない?」

 少し間を置いて、また問う。

「……嫌、じゃないです」

「今のは嘘」

 ひかりは即断した。

「嫌いじゃなくても、怖いはある」

 真帆の喉が動く。

「怖い、です」

「なにが」

「期待されることが」

 やっと出た本音だった。


 僕はその言葉を聞いた瞬間、真帆が今どこにいるかが少しだけ見えた。助けを求める手前ではない。”期待を裏切らないために、助けを求めない位置”にいる。そこは、誰かに“頑張ってるね”と言われ続けるほど遠くなる。

 その夜、僕はノートに三つの終わり方を書いた。

 一つ目、展示そのものを止める。

 二つ目、真帆に断らせる。

 三つ目、展示の形を変えて、真帆だけを象徴にしない。

 どれも完全じゃない。三つ目が一番“まし”に見えた。

 見えただけで、まだ書ききれなかった。


 翌日、理人が僕に小さな封筒を渡してきた。中には、真帆が企画担当へ返したメールのコピーが入っている。

『少しでも同じような人の励みになるなら、協力できればと思います』

 完璧な文章だった。完璧すぎる。理人は小声で言う。

「白石さん、自分で書いたんです」

「そう見える」

「でも、最初に“断ってもいい”って言う人はいなかった」

 それを言う顔が、理人にしては珍しく苦かった。

「じゃあお前、なんで止めない」

「僕ひとりで止めたら、今度は“邪魔した人”になる」

「なっても止めることはある」

 ひかりが割って入る。

「わたしはなる」

「一ノ瀬先輩はなれるでしょう。でも、僕は違う」

 理人はそう言って、初めてほんの少しだけ、ひかりに対して距離を置いた。

 尊敬だけではない感情が、そこに混じり始めていた。


 放課後、真帆は企画会議に出ていた。

 教師、星名、生徒会、広報係。みんなが“白石さんのためにも”という顔をしている。

 その輪の外で、ひかりは僕に言う。

「湊」

「なに」

「これ、解決って言い方したくない」

「うん」

「役を返す、くらいでいい」

 その言い方に、僕は頷いた。


 会議室へ入り、僕はまずラフ案を机に広げさせた。

「これ、誰が一番安心する企画ですか」

 教師たちは顔を見合わせる。星名だけが、少しだけ目を細めた。

「来場者?」

「違う」

 僕は言う。

「学校側です」

 教室の空気が変わる。

「白石さん本人が怖いって言ってる。なのに、周囲が“励みになる”を先に置いてる。これ、支援じゃなくて、きれいな話の先取りです」

 ひかりが続ける。

「頑張ってる人を、学校が勝手に“乗り越えた人”にするな」

 星名は反論した。

「じゃあ何もしないほうがいい?」

「ゼロか百で返すな」

 ひかりが噛む。

「白石さんが嫌なら嫌って言える場所を、先に作れって言ってる」

 その一言で、真帆が顔を上げた。教師たちはそこでようやく本人を見る。遅い。けれど遅くても、見ないよりはましだ。


 会議は結局、いったん白紙になった。

 展示は凍結、真帆への個別取材も中止。

 代わりに、困りごとを一人の象徴へ集めず、複数の生徒が匿名で“今進行中の悩み”を書く掲示へ変更する案が出た。

 完全な解決ではない。けれど少なくとも、真帆ひとりが“乗り越えた人”に固定される形は壊せた。


 帰り道、真帆は僕らに頭を下げた。

「ありがとうございます」

 ひかりは即座に言う。

「その礼、今日はいらない」

「え」

「いったん、自分がどうしたいか考えてから」

 真帆は驚いた顔のまま頷いた。その頷きが、今日初めて“誰かを安心させるため”じゃなかった気がした。


 展示委員会の打ち合わせは、放課後の会議室で行われた。ポスター班、広報班、写真班、取材班。誰も彼も“良いものを作っている”顔をしていて、そのぶんだけ質が悪かった。

 真帆の名前が出るたび、空気がほんの少し明るくなるのだ。

「白石さんの言葉、強いよね」

「励まされるっていうか」

「学校の顔になる」

 その軽い称賛の一つひとつが、真帆の肩へ細い糸みたいに絡んでいく。切れそうなくせに、絡まると厄介なやつだ。


 ひかりは会議室の隅で配布資料をめくり、僕は議事録係のふりをして座席表を見ていた。星名は真帆を中心に、あまり反論しない人間を左右へ置いている。理人はその一つ外、発言を拾う位置にいた。全部が綺麗すぎた。

「白石さん」

 星名が言う。

「無理のない範囲でいいから、ご家族のことに触れてもらえると」

 真帆は笑った。笑ってから、一拍遅れて頷く。あの遅れ方が嫌だった。

「……はい。できると思います」

 ひかりが椅子を引く音がした。会議が止まるほどではない、小さな音。でも僕にはわかった。限界が近い。

「“できると思います”って、便利な言い方だよね」

 ひかりが言う。

「できる、でもやりたい、でもない」

 会議室の空気が固まる。星名はすぐには返さなかった。

「一ノ瀬さん、今は企画の話を」

「してる。本人がどこまで自分の話を出していいか決める前に、“出せる空気”だけ作るの、やめたほうがいい」

 理人が何か言いかけたが、真帆が先に小さく笑った。

「大丈夫です」

 その“大丈夫”がいちばん大丈夫じゃなかった。


 会議のあと、僕らは自販機の前で真帆を待った。ひかりは珍しく先に喋らない。缶コーヒーの温度で指を温めながら、真帆のほうが口を開くのを待っていた。

「怒ってくれて、ありがとうございます」

 真帆が言う。

「礼を言う場面じゃない」

 ひかりが返す。

「でも、誰かが怒ってくれると、少し楽です」

「じゃあ、嫌なの」

 真帆はすぐには答えなかった。缶のふたを開けるみたいに、時間をかけて言葉を探した。


「嫌、って言うと、助けようとしてくれた人が傷つきそうで」

「傷つくよ」

 ひかりが即答する。

「でもそれ、白石さんが全部引き受ける理由にならない」

 真帆は目を伏せる。僕はその横顔を見ながら、ひかりが時々こういう残酷な正しさを持てることに救われる。やさしい言い回しでは届かないところへ、雑でも刺さる言葉を投げられる人間が必要な時がある。


 別れ際、真帆は僕だけに言った。

「真壁先輩」

「なに」

「私、学校の役に立つなら、それでいいって思おうとしてました」

「思えた?」

「……まだ、そこまで上手じゃないです」

 その言い方が、たまらなくしんどかった。上手じゃない、ということは、上手になろうとしているということだからだ。

 救われる側の役に、慣れようとしている。


 記念展示の撮影が始まった日、真帆は校門前で何度も立ち位置を変えさせられていた。背景に桜を入れるか、図書室を入れるか、制服の袖を少しまくるか。全部“自然な感じ”のためだ。

 自然を作るほど不自然なことはない。


 ひかりは遠巻きにそれを見て、珍しく声をかけなかった。代わりに僕へ言う。

「今、わたしが行くと“かばう人”の役が増える」

「うん」

「だから行かない」

 その判断は正しい。でも、見ているだけなのもきつい。そういう中途半端さを、最近の僕らは抱えたまま動く。


 撮影の休憩で真帆が一人になった瞬間、僕は水を渡した。

「しんどいならやめていい」

「やめたら迷惑ですよね」

「その返しが一番だめ」

 真帆は少し困ったように笑う。否定したいのに、否定の仕方が分からない笑い方だった。象徴にされるって、持ち上げられることじゃない。自分の疲れ方を自分で決められなくなることだ。そこへひかりが静かに言う。

「白石さん。迷惑って言葉、しばらく禁止」

 真帆は目を丸くしたあと、初めて声を立てて笑った。

 短い笑いだったけれど、自分で出した音だった。


 夕方、ひかりは校門のところでふいに言った。

「白石さん、たぶん“助けられた人”の顔を覚えようとしてる」

「うん」

「覚えると楽なんだよね。次もそれでいればいいから」

「ひかり」

「わかってる。だから今のうちに崩す」

 その言い方が、少しだけこわかった。けれど、たぶん必要でもあった。役は一度馴染むと、自分で脱ぐのが難しくなる。


 その夜、真帆のアンケート用紙は提出されなかったらしい。未提出の白いまま残る紙は、たぶん今の彼女にはいちばん正確だった。

 

 家に帰って、ノートを開く。今日の見出しを書いたあと、ペンがしばらく止まった。

 ――ひとりを象徴にした瞬間、その人の現在は過去形になる。

 もう一行、足す。


 ――救うより先に、役を与えたくなるとき、人は善意に酔っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ