第3章 第5話 ひとりを象徴にすると、学校は動く
白石真帆が最初に目立ったのは、本人の意思ではなかった。
創立記念企画の準備が始まった週、生徒会から『困難を乗り越えた生徒の声を集める』というアンケートが回ってきた。家族の介護をしながら通学している者、遠距離通学で部活を続けている者、経済的事情を抱えながら成績を維持している者。学校の“良い話”を集めたいのだと、誰にでもわかる文面だった。
ひかりはそのアンケートを読んだ瞬間に眉をしかめた。
「嫌」
「早いな」
「だって“困難を乗り越えた”って、現在進行形で困ってる人にも書かせる顔してる」
「その指摘はだいぶ鋭い」
「鋭くない。雑な善意が嫌いなだけ」
真帆の名前が初めて出たのは、理人からだった。昼の図書室で、貸出返却の列が途切れた瞬間に、彼は何気ない声で言った。
「白石さん、展示の中心になるかもしれません」
「かもしれない、で済む顔じゃないな」
僕が返すと、理人は困ったように笑う。
「本人も前向きです」
「その“前向き”は誰の言葉」
「……」
「本人?」
「たぶん」
「たぶんで象徴にするな」
ひかりが切り捨てる。
白石真帆は二年の別クラスで、成績は上位、部活は帰宅部、授業態度はまじめ。表面だけ見れば、何でもきちんとやる生徒だ。けれど、前から噂はあった。母親が長く働けず、本人も夕方はバイトに入っている。奨学金の書類のため、放課後によく職員室へ呼ばれている。本人はその話を一切しない。
そんな子を、“努力の象徴”にする。
嫌な予感しかしなかった。
実際に会うと、真帆は写真で見るより柔らかい顔をしていた。
図書室の窓際で参考書を閉じた彼女は、ひかりを見るなり少し笑う。
「一ノ瀬先輩って、ほんとに来るんですね」
「どういう意味」
「困ってる人がいると来るって、みんな言ってるから」
「それ、たぶん半分くらい悪口」
「でも助かる人も多いんですよね」
その言い方が妙に完成されていて、僕は嫌な汗をかいた。
誰かを安心させるための言葉を、もう持っている。
「記念企画のこと、どう思ってる?」
僕が聞くと、真帆は参考書の端を揃えながら答えた。
「ありがたいです。学校が応援してくれるなら」
「“ありがたい”以外は」
「……まだ、わからないです」
「出た」
ひかりが言う。
「いちばん危ない返事」
真帆はきょとんとする。
「そうなんですか」
「そう。わからないなら、今は“わからないので保留”でいい」
「でも、せっかく声かけてもらって」
「それで受けると、あとでやめにくくなる」
ひかりの言い方はきつい。
でも真帆の表情は、そこで初めて少しだけ揺れた。
その日の夕方、星名環は生徒会室で当たり前のように言った。
「白石さんは適任よ」
「何の」
ひかりが聞く。
「象徴の」
「人に向かって言う言葉じゃない」
「企画の中心が必要なの。誰もがひとつの痛みを覚えて帰るより、“この学校で支え合えた”という像を持って帰るほうが意味がある」
「その像に真帆を使う」
「使う、じゃない。協力してもらう」
言い換えだけがきれいだった。
僕は展示のラフ案を見せてもらった。
真帆の写真、短いインタビュー、担当教師のコメント、同級生の応援メッセージ。全部が整っている。
整いすぎていて、本人の息遣いがない。
何かを乗り越えた人の紹介ではなく、”乗り越えたことになっている人の配置”だった。
「真帆が嫌って言ったら」
僕が聞く。
「もちろん外す」
星名は答える。
「でも、あの子はそういう子じゃないでしょう」
その一言で、ひかりが机に手をついた。
「どういう子?」
「頼まれたら引き受ける子。人を安心させる返事ができる子。だからこそ向いてる」
「向いてるんじゃない。逃げられないだけ」
「それを支えるのが学校でしょ」
星名はまるで善意の説明をしているみたいな口調だった。
翌日、真帆は廊下で二人の女子に囲まれていた。『白石さんすごいね』『尊敬する』『私だったら無理』。
誉め言葉ばかりなのに、真帆の笑顔は少しずつ薄くなっていく。
ひかりはその輪に割って入った。
「白石さん、来て」
「え」
「今すぐ」
強引に連れ出す。僕は残っていた二人へ適当な言い訳をしながら追いかけた。
非常階段で、ひかりは壁にもたれた真帆に水だけ渡した。
「……ごめんなさい」
真帆が先に言う。
「なんで謝るの」
「みんな、善意だから」
「善意でも疲れる」
「でも、応えなきゃ」
「その“でも”がいらない」
ひかりの声が、珍しく低くやわらかかった。
「白石さん、嫌?」
真帆は答えない。
「嫌じゃない?」
少し間を置いて、また問う。
「……嫌、じゃないです」
「今のは嘘」
ひかりは即断した。
「嫌いじゃなくても、怖いはある」
真帆の喉が動く。
「怖い、です」
「なにが」
「期待されることが」
やっと出た本音だった。
僕はその言葉を聞いた瞬間、真帆が今どこにいるかが少しだけ見えた。助けを求める手前ではない。”期待を裏切らないために、助けを求めない位置”にいる。そこは、誰かに“頑張ってるね”と言われ続けるほど遠くなる。
その夜、僕はノートに三つの終わり方を書いた。
一つ目、展示そのものを止める。
二つ目、真帆に断らせる。
三つ目、展示の形を変えて、真帆だけを象徴にしない。
どれも完全じゃない。三つ目が一番“まし”に見えた。
見えただけで、まだ書ききれなかった。
翌日、理人が僕に小さな封筒を渡してきた。中には、真帆が企画担当へ返したメールのコピーが入っている。
『少しでも同じような人の励みになるなら、協力できればと思います』
完璧な文章だった。完璧すぎる。理人は小声で言う。
「白石さん、自分で書いたんです」
「そう見える」
「でも、最初に“断ってもいい”って言う人はいなかった」
それを言う顔が、理人にしては珍しく苦かった。
「じゃあお前、なんで止めない」
「僕ひとりで止めたら、今度は“邪魔した人”になる」
「なっても止めることはある」
ひかりが割って入る。
「わたしはなる」
「一ノ瀬先輩はなれるでしょう。でも、僕は違う」
理人はそう言って、初めてほんの少しだけ、ひかりに対して距離を置いた。
尊敬だけではない感情が、そこに混じり始めていた。
放課後、真帆は企画会議に出ていた。
教師、星名、生徒会、広報係。みんなが“白石さんのためにも”という顔をしている。
その輪の外で、ひかりは僕に言う。
「湊」
「なに」
「これ、解決って言い方したくない」
「うん」
「役を返す、くらいでいい」
その言い方に、僕は頷いた。
会議室へ入り、僕はまずラフ案を机に広げさせた。
「これ、誰が一番安心する企画ですか」
教師たちは顔を見合わせる。星名だけが、少しだけ目を細めた。
「来場者?」
「違う」
僕は言う。
「学校側です」
教室の空気が変わる。
「白石さん本人が怖いって言ってる。なのに、周囲が“励みになる”を先に置いてる。これ、支援じゃなくて、きれいな話の先取りです」
ひかりが続ける。
「頑張ってる人を、学校が勝手に“乗り越えた人”にするな」
星名は反論した。
「じゃあ何もしないほうがいい?」
「ゼロか百で返すな」
ひかりが噛む。
「白石さんが嫌なら嫌って言える場所を、先に作れって言ってる」
その一言で、真帆が顔を上げた。教師たちはそこでようやく本人を見る。遅い。けれど遅くても、見ないよりはましだ。
会議は結局、いったん白紙になった。
展示は凍結、真帆への個別取材も中止。
代わりに、困りごとを一人の象徴へ集めず、複数の生徒が匿名で“今進行中の悩み”を書く掲示へ変更する案が出た。
完全な解決ではない。けれど少なくとも、真帆ひとりが“乗り越えた人”に固定される形は壊せた。
帰り道、真帆は僕らに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ひかりは即座に言う。
「その礼、今日はいらない」
「え」
「いったん、自分がどうしたいか考えてから」
真帆は驚いた顔のまま頷いた。その頷きが、今日初めて“誰かを安心させるため”じゃなかった気がした。
展示委員会の打ち合わせは、放課後の会議室で行われた。ポスター班、広報班、写真班、取材班。誰も彼も“良いものを作っている”顔をしていて、そのぶんだけ質が悪かった。
真帆の名前が出るたび、空気がほんの少し明るくなるのだ。
「白石さんの言葉、強いよね」
「励まされるっていうか」
「学校の顔になる」
その軽い称賛の一つひとつが、真帆の肩へ細い糸みたいに絡んでいく。切れそうなくせに、絡まると厄介なやつだ。
ひかりは会議室の隅で配布資料をめくり、僕は議事録係のふりをして座席表を見ていた。星名は真帆を中心に、あまり反論しない人間を左右へ置いている。理人はその一つ外、発言を拾う位置にいた。全部が綺麗すぎた。
「白石さん」
星名が言う。
「無理のない範囲でいいから、ご家族のことに触れてもらえると」
真帆は笑った。笑ってから、一拍遅れて頷く。あの遅れ方が嫌だった。
「……はい。できると思います」
ひかりが椅子を引く音がした。会議が止まるほどではない、小さな音。でも僕にはわかった。限界が近い。
「“できると思います”って、便利な言い方だよね」
ひかりが言う。
「できる、でもやりたい、でもない」
会議室の空気が固まる。星名はすぐには返さなかった。
「一ノ瀬さん、今は企画の話を」
「してる。本人がどこまで自分の話を出していいか決める前に、“出せる空気”だけ作るの、やめたほうがいい」
理人が何か言いかけたが、真帆が先に小さく笑った。
「大丈夫です」
その“大丈夫”がいちばん大丈夫じゃなかった。
会議のあと、僕らは自販機の前で真帆を待った。ひかりは珍しく先に喋らない。缶コーヒーの温度で指を温めながら、真帆のほうが口を開くのを待っていた。
「怒ってくれて、ありがとうございます」
真帆が言う。
「礼を言う場面じゃない」
ひかりが返す。
「でも、誰かが怒ってくれると、少し楽です」
「じゃあ、嫌なの」
真帆はすぐには答えなかった。缶のふたを開けるみたいに、時間をかけて言葉を探した。
「嫌、って言うと、助けようとしてくれた人が傷つきそうで」
「傷つくよ」
ひかりが即答する。
「でもそれ、白石さんが全部引き受ける理由にならない」
真帆は目を伏せる。僕はその横顔を見ながら、ひかりが時々こういう残酷な正しさを持てることに救われる。やさしい言い回しでは届かないところへ、雑でも刺さる言葉を投げられる人間が必要な時がある。
別れ際、真帆は僕だけに言った。
「真壁先輩」
「なに」
「私、学校の役に立つなら、それでいいって思おうとしてました」
「思えた?」
「……まだ、そこまで上手じゃないです」
その言い方が、たまらなくしんどかった。上手じゃない、ということは、上手になろうとしているということだからだ。
救われる側の役に、慣れようとしている。
記念展示の撮影が始まった日、真帆は校門前で何度も立ち位置を変えさせられていた。背景に桜を入れるか、図書室を入れるか、制服の袖を少しまくるか。全部“自然な感じ”のためだ。
自然を作るほど不自然なことはない。
ひかりは遠巻きにそれを見て、珍しく声をかけなかった。代わりに僕へ言う。
「今、わたしが行くと“かばう人”の役が増える」
「うん」
「だから行かない」
その判断は正しい。でも、見ているだけなのもきつい。そういう中途半端さを、最近の僕らは抱えたまま動く。
撮影の休憩で真帆が一人になった瞬間、僕は水を渡した。
「しんどいならやめていい」
「やめたら迷惑ですよね」
「その返しが一番だめ」
真帆は少し困ったように笑う。否定したいのに、否定の仕方が分からない笑い方だった。象徴にされるって、持ち上げられることじゃない。自分の疲れ方を自分で決められなくなることだ。そこへひかりが静かに言う。
「白石さん。迷惑って言葉、しばらく禁止」
真帆は目を丸くしたあと、初めて声を立てて笑った。
短い笑いだったけれど、自分で出した音だった。
夕方、ひかりは校門のところでふいに言った。
「白石さん、たぶん“助けられた人”の顔を覚えようとしてる」
「うん」
「覚えると楽なんだよね。次もそれでいればいいから」
「ひかり」
「わかってる。だから今のうちに崩す」
その言い方が、少しだけこわかった。けれど、たぶん必要でもあった。役は一度馴染むと、自分で脱ぐのが難しくなる。
その夜、真帆のアンケート用紙は提出されなかったらしい。未提出の白いまま残る紙は、たぶん今の彼女にはいちばん正確だった。
家に帰って、ノートを開く。今日の見出しを書いたあと、ペンがしばらく止まった。
――ひとりを象徴にした瞬間、その人の現在は過去形になる。
もう一行、足す。
――救うより先に、役を与えたくなるとき、人は善意に酔っている。




