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第3章 第4話 先生たちは、知らないふりがうまい

 進路希望調査は、本来なら春のまだ軽い紙だ。


 仮の志望、仮の夢、仮の現実。

 だからこそ、他人に見られたくない。第一志望より、書けなかった第二希望のほうに、その人の事情が出る。

 その紙の中身が、生徒のあいだで妙に正確に共有されていた。


 最初に気づいたのは、昼休みに聞こえた何でもない会話だった。

「白井、専門行くんでしょ」

「え、なんで知ってんの」

「あ、ごめん、なんとなく」

 なんとなくで当たる精度ではない。二人の顔色を見たひかりが、すぐ僕の腕を小突いた。

「聞いた?」

「聞いた」

「嫌なやつ」

「かなり」


 その日の放課後、進路指導室の前で揉め事が起きた。成績上位の女子、加納玲奈が、友だちに向かって『私、推薦で東京って言ってないよね』と震えた声を出したからだ。友だちは慌てて否定したが、名前の出方が具体的すぎる。本人しか知らないはずの希望大学まで当たっていた。


 ひかりはすぐ階段の踊り場へ玲奈を連れていった。僕は友だちのほうを残して話を聞く。

「誰から聞いた」

「わかんない。たぶん、三組の子」

「三組の誰」

「……浅木くんの近くにいた子」

 嫌になるくらい、すぐ線がつながる。


 玲奈は踊り場の窓を背に立ったまま、指先でスマホケースの角を擦っていた。

「先生にしか言ってないんだけど」

「親には?」

 僕が聞く。

「まだ。行けるかわかんないから」

 ひかりが一歩前へ出る。

「じゃあ、なおさら最悪」

「最悪って、でも漏れたって決まったわけじゃ」

「決まってる。こういうのは“偶然知ってた”って顔で来るのが一番だるい」

「一ノ瀬、言い方」

「気持ちは合ってるでしょ」

 玲奈は少しだけ、泣きそうに笑った。


 調べてみると、似た話は他にもあった。就職希望を隠していたやつ、家計の事情で国公立に寄せているやつ、親と進路で揉めているやつ。誰かが大声で暴露しているわけじゃない。ただ、必要なときだけ必要な相手へ“知っている”顔で差し出される。そうされると人は、隠していたはずの事情を自分で口に出すしかなくなる。


「暴露じゃなくて、半歩手前なんだよな」

 僕は図書室でノートを開きながら言った。

「一番いや」

 ひかりが言う。

「大声で言われるより、わかったうえで優しくされるほう」

「逃げ場がない」

「うん」


 理人を捕まえたのは、閉室前の図書室端末の前だった。彼は今回ばかりは、最初から困った顔をした。

「僕じゃないです」

「お前が最初に言うときは、たいてい半分は関わってる」

「関わってないとは言ってません」

「気持ち悪い言い方やめろ」

 ひかりが切る。

 理人は頷いた。

「調整会に、進路の相談が増えたんです。誰に言えばいいか、誰には言わないほうがいいか。だから、“知ってる側が優しく導く”っていう形を……」

「誰が考えた」

 僕が聞く。

「僕じゃないです」

「星名」

 理人は目を伏せる。


 その日のうちに、星名環へ会いに行った。生徒会室ではなく、進路指導室の前にいたのがいかにも彼女らしかった。資料ファイルを抱えたまま、壁にもたれずに立っている。

「また来た」

「進路希望、どうやって見た」

 ひかりが単刀直入に聞く。

「見てないわ」

「じゃあ知ってるの、なんで」

「先生たちの会話、廊下で聞こえることくらいあるでしょう」

「それでここまで精度高いの?」

「一部は、相談の中で本人たちが自分から出す」

「出させてる」

 僕が言うと、星名は少しだけ笑った。

「誘導、というほどでもないわ。言いやすい相手の順番を整えただけ」

 “順番を整える”。またそれだ。言葉の置き方だけで、暴露と自白の境界を曖昧にする。僕がやってきたことに近いからこそ、嫌というよりぞっとする。

「先生は知ってるのか」

「全部は知らない。でも、“生徒同士でうまく調整してくれてる”くらいには思ってるかも」

「止めないの」

「止める理由がないから」

「あるよ」

 ひかりが言う。

「本人が知られたくないことを、本人が自分で言うしかない状況にしてる」

「でも、進路の問題って、どこかで言わないと前に進まない」

「言う相手を勝手に選ぶな」

「じゃあ先生に任せる?」

 星名が穏やかに返す。

「先生たちのほうが、推薦と評判と保護者を先に見る。わたしたちはまだ、生徒の顔を見てる」

 反論したかった。けれど、全面的には否定できなかった。実際、教師より先に生徒の側へ立つときがある。だから厄介だ。


 その日の夜、進路指導担当の上条と偶然廊下で会った。偶然ではないかもしれない。向こうも何か察していたのだろう。

「真壁」

「はい」

「最近、生徒間の相談が勝手にまとまることがある」

「みたいですね」

「みたい、で済ますな」

 低い声だったが、怒鳴る気配はない。

「止めないんですか」

 僕が訊くと、上条はしばらく黙った。

「止めるべきだとは思ってる」

「でも止めない」

「止めたところで、教師が全部拾えるわけじゃない」

 まっすぐな言い方だった。正しすぎて、嫌だった。

「じゃあ便利なんですね。生徒同士で処理してくれると」

「……そう聞こえるなら、否定しない」

「否定しろよ」

 珍しく、ひかりの声が荒れた。

「教師でしょ」

 上条はひかりを見たが、反論しなかった。ただ少し疲れた顔で言う。

「一ノ瀬、お前たちだって似たことをしてきただろう」

 そこで空気が止まる。

「ただ、お前たちはまだ、名前のある相手にやってきた。今起きているのは、それが手順になり始めているってことだ」

 その言い方だけが、妙に正確だった。


 翌日、玲奈を含む数人を集めて小さな話し合いをした。進路の噂を“誰が流したか”より先に、“言いたくなかったことがどの順番で言わされたか”を確認する会だった。玲奈は最初ずっと下を向いていたが、ひかりが言った。

「秘密が重いからって、暴かれたほうが悪いみたいな顔するな」

「してない」

「してる」

「……してた」

「うん。やめて」

 あまりに率直で、僕は少しだけ笑いそうになった。玲奈も目を擦って、ようやく顔を上げる。

 最終的に、進路相談は担任経由ではなく、本人が指定した相手にだけ共有し直す形にした。情報の“正しさ”より、誰が知るかを本人に返す。それだけのことなのに、調整会が先回りしていたせいで、やけに時間がかかった。


 帰り道、ひかりが言う。

「教師、ひどい」

「うん」

「でも、全部悪人じゃないの、もっとやだ」

「うん」

「こっちが雑に嫌えないから」

 信号待ちのあいだ、ひかりは黙って空を見ていた。春の空は薄い色で、何でも曖昧に見せる。たぶん、学校という場所もそれに似ている。

 漏れた進路情報は、数字や記号みたいに広がっていた。誰が推薦か。誰が一般か。誰が専門か。家計がきついのは誰か。親と揉めているのは誰か。紙の上ではただの希望調査でも、話し手が変わるとそれは“扱いやすい弱み”になる。


 僕らはまず、名前が出た生徒を三人だけ絞って聞いた。加納玲奈、白井蒼、そして三年の藤堂先輩。加納は怒っていた。白井は怯えていた。藤堂先輩は笑っていた。笑い方がいちばん危なかった。

「別に、知られて困るほど立派な志望じゃないし」

 そう言いながら、先輩は進路指導室の掲示板を見なかった。見れば、自分の紙がどこかで“資料”になっていることを認めることになるからだ。


 放課後、ひかりは進路指導室の前から動かなかった。担当の上条が出てくるのを待っていたのだ。ようやく扉が開いたとき、ひかりは挨拶もそこそこに切り込んだ。

「先生、進路希望、誰か見ました」

「見たに決まってるだろう。指導するんだから」

「そうじゃなくて、生徒が」

 上条は一瞬だけ目を逸らした。その一瞬で足りた。

「把握してるんですね」

 ひかりが言う。

「噂の範囲までは」

「止めないんですか」

「全部を?」

 上条の返しは静かだった。

「止められれば止める。だが、早めに本人へ情報が回ったことで、現実的な相談へ進める場合もある」

「それ、相談じゃなくて追いつめられてるだけの人もいる」

「いるだろうな」

 その“いるだろうな”の平たさに、ひかりの肩がぴくりと動く。僕は横から割って入る。

「先生は調整会のこと知ってる」

「名前までは」

「使ってる」

「使ってはいない。ただ、向こうから先に拾うことはある」

 それは否定ではなかった。ひかりが一歩出る。僕は反射で名前を呼んだ。

「ひかり」

 彼女は止まる。止まって、でも前を見る。

「拾うって言い方やめて。人でしょ」

 上条は初めて口をつぐんだ。


 そのあと、加納を中庭へ呼んだ。加納は最初こそ怒っていたが、話すうちに怒りの向きが変わっていった。

「私、推薦って言ってないのに、なんでみんな“当然そっちでしょ”みたいな顔するんだろ」

「成績」

 ひかりが即答する。

「あと、先生受け良さそう」

「ひど」

「褒めてない」

 加納は苦笑したあとで、やっと本音を落とした。

「家がさ、東京じゃなくて地元のほうが助かるって空気なんだよね。だから専門って書いたのに、今さら“惜しい”とか言われると、ほんと腹立つ」

 それを聞いて、僕はようやく今回の嫌さの輪郭を掴んだ。漏れたのは情報だけじゃない。本人がまだ言葉にしていない“迷い方”まで、外から先回りされている。

 帰り際、上条が小さく言った。

「真壁。君は整えようとする癖があるな」

「嫌味ですか」

「半分はな」

「もう半分は」

「それを学校が便利だと思い始めたら、終わりだという忠告だ」

 ひかりがそれを聞いて、無言で僕を見る。言葉にしなくても分かる。お前も気をつけろ、という視線だ。恋愛じゃない。もっと面倒で、でも信用していないと向けられない目だった。


 翌朝、加納は自分から進路指導室へ行った。専門志望の理由を、教師へちゃんと話し直すためだ。ひかりは廊下でそれを見送るだけにした。

「入らないんだ」

 僕が言うと、ひかりは壁にもたれたまま肩をすくめる。

「今日は本人の番」

「珍しい」

「珍しいって顔すんな」

 でも本当に珍しかった。前のひかりなら、最後まで付き添ったかもしれない。今は、役を返すほうを選んでいる。


 加納が戻ってきたのは十分後で、顔つきはまだ硬かったが、少なくとも他人に代弁される前よりましだった。

「言えた?」

 ひかりが聞く。

「半分くらい」

「十分」

「十分なの?」

「昨日までゼロだったんだから」

 そう言われて、加納は少しだけ笑った。教師との面談が解決ではない。けれど、自分の迷い方を自分で説明し始めた、それだけで進み方は変わる。

 僕はその横で、上条の言葉を思い返していた。学校が便利だと思い始めたら終わる。たぶん本当にそうだ。でも同時に、学校が拾いきれないところを誰かが拾う必要もある。その境界がまだ曖昧なまま、僕らはもう歩き始めている。


 その日の帰り、進路指導室の前を通ると、上条が加納へ向けてドアを押さえていた。たったそれだけの光景だった。けれど、教師が“整理された結果”ではなく、“まだ迷っている本人”に付き合っているように見えて、少しだけ救われる。

 ひかりは足を止めなかった。

「変わる?」

「すぐには無理」

「だよね」

「でも、見て見ぬふりしかできない人ばかりでもない」

 その答えに、ひかりは黙って頷いた。全部を敵にしないための沈黙だった。


 教室へ戻ると、進路の噂話は少しだけ減っていた。消えたわけではない。ただ、昨日までみたいに“知っていて当然”の顔は減った。その程度でも、放っておくよりはましだった。


 その日のホームルームで、担任は進路の話題を妙に丁寧に扱った。昨日までの雑さが少しだけ消えていた。小さい変化でも、無いよりはずっといい。

 家でノートを開く。今日の見出しを書いて、しばらくその下が埋まらなかった。

 ――暴露は悪い。では、優しい誘導はどうだ。

 しばらくしてから、もう一行足す。

 ――教師が拾えないことを、生徒が拾う。そこから先に、誰の責任が始まる。

 ページを閉じる前、ひかりから短いメッセージが来た。

『次、教師が絡んでても行く?』

 僕は少し考えてから返す。

『行く。けど、前みたいに勝つためじゃなく』

 既読はすぐついた。返事は一文字だけ。

『了解』

 それだけで、今夜は十分だった。


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