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第3章 第3話 誰を泣かせれば、いちばん早いか

 吹奏楽部の昼練は、校舎の一番端まで音が漏れる。


 なのに、その日は音より先に噂が広がった。ソロが変わるらしい、と。

 実際には、変わったというより、変えられたのだとすぐわかった。


 文化祭で演奏する曲のクラリネット・ソロ。本来なら二年の篠崎が吹くはずだった。

 コンクールでも常連、技術も安定している。

 ところが前日の夜、本人から『今回は後輩に譲ります』というメッセージが部のグループに投げられ、そのまま一年の久世に決まった。

 顧問は了承済み、部長も納得済み、本人も『前からそう考えていました』。

 きれいすぎた。


「譲ります、ね」

 音楽室の前で、ひかりが言う。

「譲らされた、の可能性は高い」

「わたし、ああいう“自分で選びました”の文章きらい」

「それは範囲が広すぎる」

「でも今回のは特に」


 部長の牧原は困った顔で僕らを迎えた。

「頼んでないんだけどなあ」

「顔が“助けて”って言ってる」

 ひかりが言うと、牧原は否定しなかった。

「篠崎が本当に納得してるならいい。でも、あいつ昨日まで普通にソロの合わせしてたんだよ。急に譲るとか、らしくない」


「誰が最初に“譲る”方向へ持っていった」

 僕が聞く。

「久世のほうじゃない。むしろ篠崎本人だって話になってる」

「話になってる、か」

 そこがもう怪しかった。


 篠崎は音楽室の隣、資料倉庫みたいな小部屋で譜面を整理していた。僕らを見ると、驚くより先に気まずそうな顔をした。

「なんだよ」

「その顔なら、嘘つく気ある」

 ひかりが言う。

「一ノ瀬さん、初手が強い」

「嫌なら弱くするけど」

「いや、そのままでいい」

 そう返すあたり、篠崎は元気そうに見える。だからこそ、たぶん一人で我慢する。


「ソロ、ほんとに譲りたかった?」

 僕が聞くと、篠崎は譜面の端を揃えながら言った。

「久世のほうが合ってるかもって、思っただけ」

「いつから」

「前から」

「昨日まで合わせしてた」

「昨日までは昨日」

 ひかりが一歩詰める。

「“みんなのために”って言われた?」

 篠崎の手が止まった。

「……言われてない」

「じゃあ、“今のままだと部が割れる”?」

「言われてないって」

「“久世が可哀想”」

「一ノ瀬」

 僕が止める。ひかりは舌打ちしそうな顔をしたが、そこで引いた。


 音楽室へ戻ると、一年の久世がいた。華奢で、見るからに真面目。けれど今は譜面台の前で縮こまっていた。

「やりたかった?」

 ひかりが聞く。

「……わかりません」

 久世は正直だった。

「嬉しいのか怖いのか、どっち」

「両方です」

「じゃあ、誰に“受けたほうがいい”って言われた」


 久世は一瞬迷ってから、小さく答えた。

「相談箱に」

「調整会か」

 僕が言うと、久世はびくっとした。

「名前、知ってるんですね」

「むしろ最近そればっかりだ」


 相談箱から来た助言はこうだったらしい。『篠崎先輩はチーム全体を見られる人だから、自分から譲る形がいちばん綺麗』『久世さんは断ると先輩を悪者にする』。ひどく整っている。誰も悪者にならないかわりに、誰か一人が先に飲み込むしかない形だ。

 ひかりは久世の譜面を見た。

「これ、嬉しかったでしょ」

「……はい」

「でも、受け取った瞬間から苦しかった」

 久世は顔を上げた。

「なんで」

「その顔してるから」

 久世はとうとう泣きそうに笑った。

「一ノ瀬先輩、雑です」

「よく言われる」


 音楽室の隅では、他の部員たちが『まあ穏便でいいじゃん』という顔をしていた。そこへ理人がやって来た。もう驚かないのが嫌だった。

「またお前か」

 ひかりの声に、理人は少し肩をすくめる。

「吹奏楽部って、勝ち負けより空気が大事でしょう」

「そういう言い方をするな」

「でも現実です」

 理人は久世と篠崎を見比べた。

「久世さんが無理やり奪ったことにはしたくないし、篠崎先輩を才能が落ちたみたいにもしたくない。だったら“譲る”しかない」

「それで、篠崎先輩が消耗するのは?」

 僕が聞く。

「一時的ですよ。文化祭が終われば」

「終われば、なに」

 理人は答えない。


 僕はそこでやっと気づいた。調整会は最小被害を選んでいるわけじゃない。**最小に見える被害**を選んでいる。表から見えなければ、後ろで誰がすり減っていても“穏便”と呼べる。


 そのまま帰すとまずいと思って、僕は部長の牧原と顧問を交えて小さな面談を組んだ。顧問は面倒そうだったが、ひかりが正面から言った。

「譲ったことにして終わらせると、次からも同じことやる」

「一ノ瀬、先生に向かって“やる”は」

「敬語に直します。やります」

 牧原が吹き出しかけて、すぐ真顔に戻る。顧問はため息をついた。

「じゃあ、どうするんだ」

「今のままじゃ、久世さんも篠崎先輩もソロ吹けない」

 僕が言う。

「どっちが吹いても、もう“誰かを押しのけた/譲らせた”の意味がつく」


 そこで提案したのは、文化祭本番だけソロを二分する案だった。本来の楽譜を少し編曲し、冒頭を篠崎、後半を久世が吹く。通常なら邪道だ。けれど今必要なのは正統性より、押しつけられた物語を壊すことだった。『譲った先輩』『奪った後輩』という配役そのものを解体する。

 牧原はすぐに食いついた。

「できるかもしれない」

 顧問は嫌そうだった。

「本番直前だぞ」

「直前だからです」

 ひかりが言う。

「今は、上手いかどうかより、誰がどの顔で舞台に立つかのほうが大事」


 篠崎は最初反対した。

「そんなの、余計変だろ」

「変でいい」

 ひかりが返す。

「今のままのほうが、もっと変」

「でも、俺が譲るって言ったのに」

「言わされたなら、取り下げればいい」

「言わされてない」

「じゃあ、自分で言ったなら自分で変えろ」

 乱暴だが、そこで初めて篠崎はちゃんと怒った。

「お前さあ」

「うん」

「人の我慢を雑に扱うな」

「雑に扱ってるのは、我慢したやつを“いい先輩”って褒めて終わるほう」

 篠崎の口が閉じる。久世が、その横でぎゅっと譜面を握った。


 結局、二分案は通った。夜遅くまで残って編曲し直し、二人で何度も合わせる。最初はぎこちなかったが、吹き始めてみると不思議なくらい呼吸が合った。譲るとか奪うとかではなく、ひとつのフレーズを受け渡す形に変わったからかもしれない。


 練習後、篠崎が僕に言った。

「真壁」

「なに」

「俺さ、あのまま譲ってたら、たぶん“いい話”で終わってたよな」

「うん」

「でも絶対、文化祭終わったあとで後悔してた」

「うん」

「それを今言えるの、ちょっとだけ助かった」

 ひどく静かな声だった。


 ひかりは廊下の窓を開けて、楽譜のインクの匂いがこもった空気を逃がしていた。

「調整会ってさ」

 彼女が言う。

「綺麗なやつだけ選んで残そうとする」

「残りを見ないほうが楽だから」

「でも残りのほうが、人間だよ」

 その言い方が、少しだけ嬉しそうで、少しだけ怒っていた。


 帰る前、理人がまた現れた。

「成功したなら、結果オーライじゃないですか」

「違う」

 ひかりが即答する。

「今回は、成功したんじゃなくて、最初にお前らがつけた名前を剥がしただけ」

「名前?」

「譲る先輩、奪う後輩、空気を守る部活。そういうの」

 理人は黙る。僕はそこへ一つだけ足した。

「最小に見える被害を選ぶの、やめろよ」


 理人はまばたきをした。

「……何が違うんですか」

「見えてない被害は、終わらない」

 答えながら、それはたぶん僕自身にも向けた言葉だった。


 夜の追加練習は、音楽室ではなく視聴覚室で行われた。顧問が音の抜けを嫌ったからだ。いつもより狭い部屋に譜面台が並び、篠崎と久世が前へ出る。二分したソロは、理屈ではまだ不格好だった。前半を篠崎が支え、後半を久世が受け取る。その繋ぎ目が少しでも不自然なら、観客はすぐに“揉めたからこうなったんだ”と気づく。

 けれど、だからこそ二人は真剣になった。上手く聞こえるためではなく、奪ったとか譲ったとかいう物語に負けないために。

「もう一回」

 顧問が言う。

「今の、上手い下手じゃなくて息が遠い」

 篠崎が舌打ちしそうな顔をし、久世がすぐに頭を下げる。ひかりは後ろの席で腕を組んだまま、それを見ていた。

「久世」

「は、はい」

「謝るの先すぎ」

「え」

「今のは二人の問題。先に謝ると、篠崎先輩が全部背負う流れになる」

 久世はきょとんとした顔のあとで、やっと小さく息を吐いた。

「……はい」

 篠崎が横でぼそっと言う。

「助かった」

「今の、私じゃなくても言えた」

「言えないからこうなってんだろ」

 その返しが、少しだけまともな先輩後輩の音に聞こえた。


 休憩のあいだ、僕は譜面台の影で理人に会った。招いていないのに、もう驚かないのが嫌だった。

「見学?」

「結果確認です」

「その言い方、ほんと好きじゃない」

 理人は困ったように笑う。

「でも、上手くいきそうですね」

「今のところは」

「なら、やっぱり正しかった部分もあるんじゃないですか」

「どの部分」

「部が割れる前に、誰かが整理すること」

 そこだけ切り取れば、間違っていない。問題は、その“誰か”が、誰の傷を見えない場所へ押し込むかを決めていることだ。

「理人」

 僕は視聴覚室の中を見ながら言う。

「今、中で何が起きてるかわかる?」

「……修正、ですよね」

「違う。取り返してるんだよ」

 理人は黙る。

「配られた役から、自分の分を」

 言ったあとで、自分でも少しだけ納得した。僕らが今やっているのは、綺麗な解決じゃない。取られたものを、少しずつ持ち主へ返しているだけだ。


 練習の終盤、久世が一度だけ音を外した。部員が一斉に顔を上げる。以前なら、その瞬間に空気が凍っていた。けれど篠崎は先に吹くのをやめて、自分の譜面を指で叩いた。

「そこ、俺も前に落とした」

「え」

「今の、緊張の場所だから。次、ここだけ先にやる」

 顧問が何か言う前に、二人でその四小節だけを繰り返した。下手な優しさより、よほど効くやり直し方だった。ひかりは隣で小さく「いい」と言った。僕はその一言だけで十分だった。


 帰り際、牧原が僕に言った。

「もしあのまま“譲ります”で終わってたら、部としては楽だった」

「うん」

「でも、今日みたいな面倒は二度と起きなかった代わりに、たぶん次から何かあるたび“あの時もそうだったから”って処理してた」

 それが怖いのだと思う。調整会は一件ごとに便利だ。だからこそ、前例になる。


 ひかりは先に昇降口へ向かいながら振り返る。

「湊、まだ?」

「今行く」

「置いてくよ」

「置いてかれても追いつく」

「追いつくの前提で置いてる」

 そういう会話をしながら歩けるのが、今は少しだけ助かった。


 文化祭当日、二分したソロは予想以上にうまくいった。というより、うまくいくかどうかより先に、二人とも自分の音を人へ明け渡さずに済んだ。それが大きかった。


 演奏後、久世は袖の暗がりで泣きそうな顔をしていた。

「やばかったです」

「泣くほど?」

 ひかりが言う。

「泣くほどです」

 その答えに、篠崎が横から笑う。

「俺も」

 二人で同じタイミングで息を吐く。

 その様子を見て、部員たちの顔つきも少し変わった。綺麗な譲り合いではなく、危なかったけど二人で持ちこたえた話として残る。

 それなら、次に同じことが起きても“誰か一人が身を引く前例”にはならない。


 帰り際、ひかりが言った。

「今日のやつ、たぶん観客には継承とか努力とかそういうふうに見える」

「うん」

「でも、当人だけが“危なかった”を知ってれば、まあいい」

 その線引きが、今のひかりらしかった。

 全部を説明しなくていい。でも、綺麗な話に飲まれないだけの手触りは残す。その加減を、僕らは少しずつ覚えている最中だった。


 家に帰る前、ひかりは音楽室の扉に手をかけたまま言った。

「今日の、まわりにはいい話に見えるかも」

「うん」

「でも、当人が違うって知ってれば、たぶんまだ守れる」

「何を」

「勝手に配られた役」

 そう言って階段を下りていく背中は、いつもより少しだけ軽かった。

 誰かを助けるだけじゃなく、誰かが“自分でやった”手触りを残せた日は、ひかりも少しだけ静かになる。


 帰り道、篠崎が久世へ「次はもっと容赦なく合わせる」と言い、久世が「はい、でも次は先に言います」と返した。そのやり取りが残るなら、今日の面倒は無駄じゃない。


 家に帰って、ノートを開く。今日の見出しは長くなった。

 ――最小被害ではなく、最小に見える被害を選ぶとき、人は自分を有能だと思いやすい。

 書いてから、ペン先が少し止まる。僕はその言葉に見覚えがあった。

 見覚えというより、身に覚えが。

 だから余計に、胸のあたりが冷えた。

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