第3章 第2話 調整会
体育祭の選抜が発表された日、教室の空気は驚くほど静かだった。
普通なら、選ばれたやつが照れ、落ちたやつが露骨に機嫌を悪くして、委員が半泣きになる。毎年そうだ。けれど今年は違った。発表前から、ほとんどの顔が諦めたように落ち着いていた。
「嫌な静けさ」
名簿を見上げたひかりが言う。
「静かなだけで怒るなよ」
「怒ってない。警戒してる」
男子リレーの一走に、足は速いが遅刻癖のある赤城。
二走に学級委員の瀬能。アンカーにサッカー部の主将。
女子は、人気者と、地味だが足の速い子と、空気を悪くしにくい子がきれいに混ざっている。能力だけでもない。人気だけでもない。“揉めなさ”まで計算された並びだった。
昼休み、体育委員の今野が自分から僕らの机に来た。
「なあ、真壁」
「嫌な予感しかしない」
「だろうな。まあ当たってる」
今野は紙パックの牛乳を持ったまま、声を潜める。
「選抜、俺が決めたことになってるけど、正直ほとんど決まった形で回ってきた」
「誰から」
「知らん。というか、三人から別々に同じ案が来た。赤城本人には『一走だと納得されやすい』、瀬能には『お前が入ると責任が見える』、サッカー部には『アンカーが人気だとクラスが騒がない』って」
「……気持ち悪いな」
「だから来たんだよ。俺だって」
ひかりが前のめりになる。
「その三人、誰」
「一年の浅木。二年の生徒会書記、星名。あと、掲示板の匿名相談箱」
ひかりと僕は同時に顔を上げた。
放課後、体育倉庫の裏で選抜メンバーの聞き取りをした。赤城は悪びれず言った。
「俺、一走にしといたほうが文句出にくいって言われた」
「誰に」
「浅木。去年の図書委員の」
「なんで従った」
「だって本当じゃん。俺、アンカーだと嫌われるだろ」
笑って言う。笑えてしまうところがきつい。本人が、自分が割り振られる役をもう理解している。
女子側の一人、永瀬はもっとはっきりしていた。
「私、入らないつもりだった。でも“空気読める人がひとり入ると助かる”って言われて」
「それで入った」
「うん。別に、間違ってはないし」
「嫌じゃなかった?」
ひかりが聞くと、永瀬は少しだけ目を逸らした。
「嫌っていうか……最初からそういう役で呼ばれるのは、ちょっと」
「ちょっと、で済ませるな」
「一ノ瀬先輩みたいに言えたら苦労しない」
そのあと、理人が自分から現れた。まるで時間を合わせていたみたいに。
「呼ばれてない」
ひかりが先に言う。
「知ってます。でも、この件の話ですよね」
「ならなおさら帰れ」
「一ノ瀬先輩、全部喧嘩から始めるのやめた方がいいです」
「浅木」
僕が間に入る。
「説明して」
理人は頷いた。
「体育祭って、能力で決めるって言いながら、本当は空気で揉めるでしょう。足の速さだけで決めたら『あいつばっかり』になるし、人気だけだと勝てない。だったら先に全員が納得しやすい物語を作っておいたほうがいい」
「物語」
「はい。赤城先輩は“反省して前に出る役”。瀬能先輩は“責任の見える役”。永瀬先輩は“支える役”。そうすると、反発する場所が減ります」
言葉にされると、ぞっとする。人を能力で並べるより先に、役で固定する発想。ひかりが噛みつく。
「勝手に配役すんな」
「でも、実際丸く収まってます」
「丸く見えてるだけ」
「一ノ瀬先輩たちも、今までずっとそうしてきたじゃないですか」
理人の声は責める響きではなかった。本気で疑問に思っているだけだった。だから厄介だ。僕らは少し前まで、こういう言葉に『違う』と即答できた。でも今は、その“違い”を説明する言葉が足りない。
そこへ星名環が現れた。いつものように整った姿勢で、資料ファイルを抱えている。
「理人、勝手に喋りすぎ」
「すみません」
「謝るほどでもないけど」
星名は僕らに向き直る。
「調整会、って呼ばれてるものなら、別に隠してません。非公式ですけど、生徒会案件に近い困りごとを早めに整理してるだけです」
「整理」
ひかりが吐き捨てる。
「そう。誰がどう怒るか、誰がどこで折れるか、先に見ておく。先生たちが動く前に収まるなら、そのほうが学校全体は楽でしょう」
「学校全体、ね」
僕が言うと、星名は少し笑う。
「真壁くん、その言い方好きじゃないでしょう。でも、嫌いでも現実です」
その夜、選抜メンバーのグループ通話が荒れた。きっかけは赤城の一言だった。
『どうせ俺、こういう役しか来ないし』
冗談っぽく書かれたそれに、永瀬が珍しく即レスした。
『私も』
そこで糸が切れた。調整されていた不満が、まとめて出た。ひかりは通話へ飛び込みそうになったが、僕が止める。
「今行くと、一番強い言葉を置く」
「必要でしょ」
「必要だけど、順番を間違えるとまた配役になる」
「じゃあどうする」
「まず“決められた役が嫌だった”って言わせる」
僕は今野へ連絡し、委員名義で急きょミーティングを入れさせた。ひかりはそこで、珍しく導入を僕に譲った。
「選抜が嫌だったやつ、まず手を挙げて」
空気が固まる。僕は続ける。
「勝ちたいとか負けたくないとかじゃなく、どういう役で置かれたかが嫌だったやつ」
最初に手が上がったのは永瀬で、次に赤城だった。そのあと瀬能。そこから一気に崩れた。『責任役がしんどい』『支える側で便利に使われた』『人気枠って言われたの最悪』。体育祭そのものへの不満ではない。役を押しつけられていたことへの怒りだった。
ひかりが前へ出る。
「怒るの遅い。でも、遅くても怒ったほうがいい」
「一ノ瀬先輩、それ慰めてる?」
「してない。事実」
クラスの半分が苦笑し、半分が頷いた。そういうところで空気は少し戻る。
最終的に選抜は組み直された。完全な実力主義にも人気投票にもせず、当人たちが嫌だった役を一度剥がしてから、改めて希望を聞く形にした。丸くはない。正直、かなり面倒だった。でも少なくとも、最初から“納得役”を押しつけられたまま走るよりはましだった。
片づけのあと、星名が廊下の窓にもたれて言った。
「感情を出させる手間を、わざわざ増やしたわけだ」
「出さないまま走らせるよりはいい」
僕が答える。
「そうかな。痛みって、散らすと学校全体が疲れるよ」
「一人に集めるほうが楽だから?」
「楽よ。圧倒的に」
あっさり言う。
「そのために誰かを役に押しこむの、悪いと思わないのか」
ひかりが睨む。星名は少し首を傾げた。
「悪いと思うかどうかは、最後に決めればいいでしょう。結果として事故が減るなら」
「事故」
「揉め事。離脱。炎上。教師介入。保護者連絡。推薦への悪影響。ぜんぶ事故よ」
言い切るあたりが、ひどく教師に似ていた。
帰り道、ひかりは珍しく言葉を選んでいた。
「浅木はまだ人間っぽい」
「星名は」
「人間っぽいのを卒業してる」
「ひどい評価だな」
「だって、湊に似てる」
「おい」
「褒めてない」
即答だった。
再選抜が終わったあとも、教室の空気はすぐには元に戻らなかった。表向きは笑っているやつでも、ノートを開く指先が強い。赤城はいつもより冗談を多く言い、永瀬はいつもよりよく笑った。そういう“平気なふり”は、見ようとしなければ見落とせる程度の薄さでしか出ない。
ひかりはそれを見落とさなかった。
「終わってない」
「うん」
「終わった顔してるだけ」
「うん」
「お前、今日うんしか言わないな」
「同意できるときは節約する」
「腹立つ」
放課後のグラウンドで、組み直されたメンバーが初めてバトンをつないだ。うまくはない。けれど、最初に貼り出された“丸く収まる配役”より、ずっと変な呼吸で、ずっと人間っぽかった。赤城が一度バトンを落とし、周りが思わず声を上げたあと、自分で拾って笑う。その笑いに、朝の乾いた感じはなかった。瀬能はアンカーから二走へ下がったことをまだ飲みきれていない顔をしていたが、それでも赤城にだけは「次、前見て走れ」と本気で怒っていた。そういう怒り方が戻るなら、まだやり直せる。
その様子を、体育教師の北岡が腕を組んで見ていた。
「面倒なことをしたな」
第一声がそれだった。
「丸くはないですけど」
僕が返すと、北岡は鼻で笑う。
「丸い必要はない。ただ、体育祭ってのは結局、本番で走れればいい」
「走れれば、ですか」
「そうだ。感情の整理まで教師が面倒見きれると思うな」
ひかりが横で顔を上げる。
「見きれないから、生徒に押しつける?」
「押しつけるとは言ってない」
「でも楽だったでしょ。最初の組み合わせ」
北岡は答えなかった。沈黙のまま笛を吹いて、次のスタート位置を指示する。それが教師側の正しさなのだろう。全部は拾えない。だから、走る形だけ整っていればよしとする。その割り切りを、調整会はもっと先まで押し進めているだけかもしれなかった。
理人はグラウンドの端で、そのやりとりを黙って見ていた。終わったあと、彼は僕らに近づいてきて言った。
「先生たちだって、似たようなこと考えてるんですね」
「だから安心した?」
ひかりが言う。
「少しだけ」
「そこが危ない」
ひかりは汗で額に貼りついた前髪を気にも留めず、理人へまっすぐ言う。
「“みんなそうしてる”は、いちばん楽な逃げ道だから」
「でも、現実的じゃないですか。全部の気持ちなんて拾えない」
「拾えないよ」
「じゃあ」
「拾えないって知ったうえで、勝手に役を配るなって言ってんの」
理人は息を呑む。たぶん、ひかりの怒り方はいつも少しだけ強い。でもその強さがないと届かない相手もいる。
帰る前、永瀬がひかりに声をかけた。
「一ノ瀬先輩」
「なに」
「私、あのまま走ってたら、たぶんずっと“空気読める役”やってました」
「うん」
「別に得意じゃないです、あれ」
「知ってる。顔に出てた」
永瀬はそこで初めて声を立てて笑った。
「ひどい」
「褒めてる。顔に出る人のほうが、あとで戻しやすいから」
その言葉を聞いて、湊は少しだけ救われた。ひかりは雑に見えて、ちゃんと戻す前提で人を見る。その前提だけは、調整会にはたぶんない。
その日の帰り、今野がコンビニ前で追いついてきた。
「真壁」
「なに」
「今日のやつさ、めんどくさかったけど、あれでよかったのかも」
「珍しく殊勝だな」
「うるせえ」
今野は少し笑ってから、すぐ真顔に戻る。
「最初の名簿のままだと、俺たぶん“文句言わない委員”のまま終わってた」
「それ、だいぶ損な役だな」
「だろ。けど、そういうのって一回飲むと、次も来るじゃん」
役は前例になる。調整会が怖いのはそこだ。誰かが一度“それっぽい位置”へ置かれると、次からは本人までそこへ自分を合わせ始める。
ひかりは横で歩幅を変えずに言う。
「今野、次に似たことあったら一回荒れろ」
「ひどい指示だな」
「でも効く」
「……まあ、今日は効いた」
その返事を聞いて、僕は少しだけ救われる。派手な勝ちじゃない。けれど、役を剥がす瞬間って、たぶんこういう小さな言い換えから始まる。
夜、グループチャットには『今年の選抜、去年より面倒だけど納得感ある』という誰かの書き込みが流れた。たったそれだけの文なのに、僕は少しだけ画面を見続けた。納得感。たぶん今日必要だったのは、それだ。丸く収まることじゃなく、当人が自分の位置を説明できること。
ひかりはそれを覗きこんで、
「遅い」
と言った。
「でも、遅くても出たならまし」
その評価が、今の僕にはちょうどよかった。
帰宅後、クラスの連絡網には『今日の決め直し、しんどかったけど嫌じゃなかった』という投稿が流れた。既読は多いのに、軽いスタンプがつかない。その沈黙が、むしろ本音に近かった。
寝る前、ひかりは『今日のは面倒だったけど嫌いじゃない』と送ってきた。面倒を面倒のまま引き受けた日ほど、あいつはそう言う。
家に帰って、ノートを開く。今日の見出しはすぐ決まった。
――丸く収まる配役は、誰にとっての最善か。
書いてから、ペンが止まる。少し考えて、もう一行足した。
――“事故を減らす”は、いつから“人を削る”になる。




