第3章 第1話 二年生は、前より少しだけ悪い
始業式の朝、新しい下駄箱の列に小さな波が立っていた。
名札が三枚、妙な位置へ入れ替わっていたからだ。ふざけ半分の悪戯にしては顔ぶれが悪い。
去年、同じ件で揉めた女子と、遅刻常習の男子。
元のクラスで固まりやすかった三人は、見事にばらけている。偶然で片づけるには、あまりにも整いすぎていた。
ひかりはもう一歩で前へ出るところだった。
僕は袖を引く代わりに、下駄箱の列を見た。
誰が困っていて、誰が笑っていて、誰が『まあいいじゃん』で終わらせようとしているか。
ひかりが横目でこっちを見る。許可を求めているわけじゃない。役割を渡してくる目だ。
「右の二人、今は離して。札は戻す。先生が来る前にやる」
「命令口調が板についてきたな」
「湊は文句を言いながら従うのが板についてる」
ひかりが前へ出ると、周囲は反射で従う。顔がいいのと、声が通るのと、迷いがないのと、その全部だ。けれど僕は別のものを見ていた。
名札を戻すより先に、当人たちへ『一回これで様子見よう』と声をかけた一年がいた。どこにでもいそうな、けれどこの場では妙に都合のいい台詞だった。
教室でも同じことが起きた。席順表が貼り出されると、何人かの顔が固まる。浮きそうなやつ、元の友だちから離されたやつ、問題児の隣に置かれたやつ。だが揉めるより先に、『最初から変えると空気悪いし』『一回やってみてからでも遅くない』という声が、ちょうどいい順番で飛んだ。
「自然すぎる」
ひかりが低く言った。
「作られてる」
僕は昨夜のグループチャットを遡りながら答えた。見慣れない匿名アカウントから、夜のうちに短い助言がいくつも飛んでいた。『最初に反発しないほうが、あとで入れ替えが通る』『怒る役が固定される前に納得役を置け』。文面の骨組みが、嫌になるほど見覚えのあるものだった。
休み時間、ひかりは中心にいた三人へ聞き込みに行き、僕は朝の下駄箱前にいた顔ぶれと、席順表が貼られた瞬間に最初に喋ったやつを照らした。共通しているのは、ひとりの名前だった。
去年まで図書委員会の雑務ばかりやっていた一年、浅木理人。
目立たないが、なぜか要所にいる。
「真壁先輩」
本人のほうから話しかけてきたのは、昼休みの図書室だった。背の高くない、薄い顔の一年だった。礼儀正しい声。人を不快にさせない笑い方。そういうのがかえって厄介なこともある。
「何」
「朝の件、もう落ち着きましたよね」
「落ち着かせた、の間違いじゃないか」
「先に荒れないようにしただけです」
ひかりが本棚の陰から顔を出す。
「誰の許可で」
「許可がいるんですか」
「いる。少なくとも、人の怒る順番を勝手に決めるなら」
理人は少し目を伏せた。それが怯えではなく、考える癖だとすぐわかった。
「怒る前に、話せる形にしたかったんです」
「話せる形?」
「最初に一人が強く怒ると、その人が“めんどくさい側”に固定されるでしょう。そうなる前に、空気だけ整えたんです」
言っていることはわかる。わかってしまうのが嫌だった。僕らもずっと似たようなことをしてきたからだ。ひかりが前へ踏みこみ、僕がその後に残る痛みを少しでも減らす。怒る順番をずらし、言葉を置き、結末が致命傷にならないよう編集する。浅木理人がやったのは、その簡易版だった。
「湊」
ひかりが僕を見る。
「うん」
「わかる顔するな」
「してない」
「してる」
理人は、そのやり取りを少しだけ嬉しそうに見た。そこがまずかった。こいつは僕らを敵だと思っていない。むしろ、ちゃんと読んでいる。
午後、担任が席順の再調整に入ることになった。僕とひかりは、当事者たちだけを残して話し合いをやり直させた。『最初から我慢したこと』を一回言葉にさせるだけで、空気はかなり変わる。ひかりは真正面から言った。
「怒ってよかったんだよ」
問題児の隣に置かれていた女子が、ぽかんとする。
「最初に『仕方ない』って言ったの、別に偉くないから。困るなら困るって言っていい」
「でも、そうすると……」
「空気悪くなる?」
「……うん」
「それを悪いって思うやつのほうが、だいたい怠けてる」
きつい言い方だが、効くときは効く。僕は横で、変更後の席順案を担任に渡しつつ、全員が一回ずつ希望を言った体裁を整えた。そうしないと、あとで『一ノ瀬が勝手に変えた』『真壁が裏で仕切った』になる。面倒だが、面倒を先に引き受けるのが今の僕らだ。
放課後、理人は図書室前で僕を待っていた。
「怒られると思ってました」
「怒ってるよ」
「でも止めなかった」
「今回はな」
「今回は、ってことは」
「次はわからない」
理人は少し笑って、それから真面目な顔に戻った。
「真壁先輩、ノートつけてますよね」
背中が冷えた。
「何の話」
「結末案。誰がどこで何を言えば、いちばん傷が少ないか、書いてる」
そこまで知っているのか、と驚くより先に、誰が見せたのかを考えた。僕は誰にも見せていない。ひかり以外には。
「……見たのか」
「見た、というより、似た文章を読んだことがあります」
「どこで」
「言えません」
ひかりが階段の上から降りてきた。
「湊、その顔なに」
「この一年、気持ち悪い」
「褒め言葉ですか」
「違う。だいぶ悪口」
理人は怒らない。ただ、少しだけ姿勢を正す。
「一ノ瀬先輩たちのやり方、必要だと思うんです。誰かが踏みこんで、誰かが終わらせる。あれを、もっとみんなが使える形にしたい」
ひかりの表情が消える。
「みんなが使えたら、それはもう違うものになる」
「でも、二人だけのものにしておく理由もないでしょう」
「あるよ」
ひかりは即答した。
「責任を取れる人数が、最初から少ないから」
理人は答えなかった。わからないのではない。たぶん、まだ納得していないだけだ。
帰り道、ひかりはずっと黙っていた。信号待ちでやっと口を開く。
「湊」
「なに」
「今の、ちょっと似てた」
「何が」
「わたしたちに」
「……うん」
「嫌だね」
「うん」
「でも、ぜんぶ間違いとも言えないの、もっと嫌」
そう言って、ひかりは珍しく笑わなかった。
その日の掃除の時間、下駄箱の前で揉めた三人のうちの一人、神谷が僕の机まで来た。掃除当番表を丸めたまま、立ったり座ったりしそうな落ち着かなさで、結局言ったのは短い一言だった。
「朝、ありがと」
「礼を言われるほどでもない」
「でも、助かったのは事実」
そこで神谷は少し言いよどんでから、声を落とした。
「……ああいうの、先生に言うほどじゃないって顔で終わるじゃん。けど、終わらせたくない時あるだろ」
ひかりが前の席から振り返る。
「ある」
「だよな」
神谷は少しだけ笑った。助かった顔ではなく、見てもらえたときの顔だった。ひかりはその顔を見ると余計に前へ出たくなる。僕はその横で、誰が“見てもらえた側”に立ち、誰が“動いてくれた側”に押し上げられているのかを数えてしまう。
放課後、図書室の貸出カウンターでも似たことが起きた。返却期限を過ぎた一年が司書教諭に叱られる前に、理人が横から入ってきて、「その本、今日の朝に閉架から出てましたよね。なら延滞扱い、少しずれませんか」とごく自然に言ったのだ。
教師は一瞬だけ眉をひそめたが、結局そのまま頷いた。
悪くない解決だった。けれど、一年は理人へ頭を下げ、理人は笑って首を振る。僕はその光景に、朝の神谷の顔と似たものを見た。助けられた側が、もうその瞬間に“助けられた役”へ置かれている。
「見た?」
図書室を出たところで、ひかりが言う。
「見た」
「今の、悪くなかった」
「うん」
「でも、嫌」
「うん」
短いやり取りだった。ひかりは“嫌”をうまく説明しない。説明する前に踏みこむ側だからだ。けれど今回は、踏みこまずに終わった。僕が隣にいるからか、それとも相手が一年だからか。その両方かもしれない。
理人は階段の踊り場で追いついてきた。
「僕、間違ってました?」
「そこだけなら、間違ってない」
僕が答えると、理人は少しだけ安心した顔をした。ひかりはすぐさまその顔を睨む。
「安心するな」
「え」
「今の一件で気持ちよくなると、次はもっと勝手にやる」
理人は言葉に詰まる。僕は横で、ひかりの口調が少しだけきつすぎると思いながら、でも止めなかった。こいつは今、理人自身じゃなく、その後ろにある“手応え”へ怒っている。
「一ノ瀬先輩たちは、気持ちよくなったことないんですか」
理人が訊いた。
ひかりは即答しなかった。僕も黙った。そこを黙るしかないのが、もう答えみたいだった。
「……ある」
ひかりが先に言う。
「あるから嫌なの。わかる?」
理人は頷けなかった。ただ、その目の奥で何かが少しだけ揺れた。たぶん、まだこちら側だ。完全に向こうへ行ったわけじゃない。そう思ったのは、希望というより、まだ切り捨てたくないという僕の都合だった。
翌日の朝、また小さな揉め事が起きた。今度は提出物の回収順だった。真面目なやつが損をして、声の大きいやつが最後に回る。そんな程度のことで、教室の空気は簡単に荒れる。けれど担任が来る前に、黒板へ誰かが短く書いていた。
『先に出した人から帰りの雑務を減らす』
雑な字だったが、効果はあった。文句を言っていたやつも、得のほうが見えるとすぐ静かになる。ひかりはそれを見て、朝から嫌そうな顔をした。
「まただ」
「うん」
「正しさじゃなくて、導線で動かしてる」
僕は黒板の端に残ったチョークの粉を指で擦った。こういう小さな誘導は、成功すると便利さしか残らない。だから広がる。
ホームルーム後、担任は何も気づかずに回収表だけ持って行った。見えなければ、教師は平穏だ。理人は廊下の向こうでこちらを見ていたが、近づいてはこなかった。たぶん自分でも、どこまでが“助け”で、どこからが“配役”なのかまだ言葉にできていない。そこに名前をつける前に、次の件が起きる。そういう速度で学校は回っている。
翌日の昼、ひかりは珍しく自分から理人を呼び止めた。
「浅木」
「はい」
「次に何かやるとき、先に“誰が助かった顔をするか”じゃなくて、“誰があとで喋れなくなるか”見ろ」
理人はすぐには頷けなかった。けれど、その場で反論もしなかった。
「……難しいです」
「知ってる」
ひかりは言う。
「だから簡単に正解ぶるなって話」
その言い方は刺々しいのに、妙に優しかった。切り捨てる気があるなら、そんな面倒な忠告はしない。
放課後、ひかりは理人の背中を見送りながらぽつりと言った。
「たぶん、あいつはまだ“助ける側”に立つのが嬉しいんだよね」
「うん」
「わかるのが嫌」
その“わかる”に、僕も何も返せなかった。嬉しいからやる善意は、たいてい最初に本人を甘やかす。
夜、机へ向かう前に、ひかりから『明日も見る』とだけ届いた。短いのに、それで十分だった。誰かが見ていると思えるだけで、僕はまだ“整える側”へ酔いきらずに済む。
家に帰って、机のノートを開く。今日のページの下に、一行だけ足した。
――怒る順番を整えるのは、救いか、支配か。
書き終えたところで、机の引き出しに折りたたまれた紙片が入っているのに気づいた。見覚えのない白いメモ。開くと、短く二行だけ。
『結末の置き方、勉強になります。
調整は、もう始まっています。』
文字は端正で、癖がなかった。だから余計に不気味だった。
翌朝、ひかりは一限前の教室で、机に頬杖をついたままぽつりと言った。
「ラノベの主人公なら、こういう相手、放っておかない」
「放っておくというか、今はまだ全体が見えてない」
「わかってる。でも、嫌な感じがする」
「それは僕も同じだよ」
「じゃあ」
ひかりが顔を上げる。
「今度は、ちゃんと二人で行く」
「最初からそのつもりだ」
「ならいい」
その短いやり取りで、少しだけ息が整った。敵が見えないときほど、ひかりは前へ出たがる。僕はそれを止めたがる。でも今は、止めること自体が目的じゃない。止めるなら止めた先まで、行く必要がある。
そう思ったところから、たぶん僕らのやり方は、少しずつ変わり始めていた。




