第2章 11話 主人公の不在
僕は学校へ行かなくなった。
最初の二日は体調不良ということにした。三日目からは、理由を考えるのも面倒になった。
ノートは閉じた。原稿も開かない。スマホの通知は切った。ひかりからのメッセージだけが何度も来たが、読むことすら避けた。
誰かの結末に触れるたび、その先で誰かを壊すのなら、もう何もしないほうがいい。
何もしないほうが、まだましだ。
けれど何もしないと、学校では当然“僕の役目”だった後始末が残る。
榊原の件で気まずくなった委員会、相談箱の再調整、七瀬のクラスの空気。ひかりが一人であちこち走り回っていると、担任から聞かされた。
それでも僕は行かなかった。
助けに行く資格がないと思っていたし、それ以上に、また“きれいに整えたくなる自分”が怖かった。
四日目の夕方、ひかりは来た。
マンションの階段に座っていた。
「出ろ」
インターホン越しに聞こえた第一声がそれだった。
「帰れ」
「やだ」
「近所迷惑」
「知るか」
押し問答に負けたのは僕だった。玄関を開けると、ひかりはむすっとした顔で立っていた。
「顔色悪」
「帰れ」
「帰らない。屋上」
「なんで」
「逃げ道が少ないから」
「最悪」
「知ってる」
屋上へ上がると、冬の風がまっすぐ頬に当たった。
空はもうほとんど夜で、フェンスの向こうに街の灯りだけが浮いている。ひかりは扉のそばから動かず、背中でそれを押さえるみたいに立っていた。逃がさないつもりなのか、自分が逃げないつもりなのか、見ただけでは分からない。
僕はフェンスまで行って、そこにもたれた。金網が冷たかった。
先に口を開いたら負ける気がした。
でも、黙っていると、頭の中で同じところばかり回った。
「……ラノベの主人公なら、こんなとき、どうするんだろう」
口に出した瞬間、自分で嫌になった。
ひかりの言葉を、ひかりに向かって投げている。考えるのをやめたいくせに、助けてもらうための合図みたいだった。
風に押されて、ひかりの前髪が片目にかかる。
そのまま、ひかりは言った。
「さあね」
少し間があった。
「でも」
「なに」
「真壁湊なら、考えるのをやめない」
名前で返されたせいで、息がつまった。
「考えたよ」
フェンスの外を見たまま言う。
「考えて、考えて、それでああなった」
「……」
「榊原は僕らに感謝してる。あれでよかったと思ってる。だから余計に最悪だ」
「全部、お前一人でやったみたいに言うな」
「一人じゃなくても同じだ。僕はあいつの前に“これが最善です”って顔をして立ってた」
喉の奥が、ひどく乾いていた。
「壊れるほうに押したのに、感謝された。あれ以上、どうやって間違えれば気が済むんだよ」
「湊」
「もういい」
「よくない」
そこで、ひかりの声が少し強くなった。
「よくないし、終わらせるな」
「終わったんだよ」
「終わってない」
「終わらせろよ」
「嫌だ」
間髪を入れずに返ってきた。
いつもの調子なら、そこで僕も言い返したと思う。
でも、その一言が思ったより近くで鳴いて、顔を上げた。
ひかりはさっきの場所から動いていなかった。
なのに、肩だけが落ち着かなかった。息を吸うたび、制服の胸元が小さく上下する。何か言おうとしているのに、次がうまく出てこないみたいに、唇が一度閉じて、また開く。
「お前、いつもそうやって最後まで考えるだろ」
言い切ったあとで、少し息が乱れた。
「嫌な終わり方も、誰が傷つくかも、あとで誰が立てなくなるかも」
「……」
「それを考えるの、お前じゃん」
僕は返せなかった。
ひかりは苛立ったみたいに鼻で息を吐いた。
手の甲で目元をこする。たぶん風のせいにしたかったんだと思う。でも、こすったところからすぐまた濡れて、今度は袖を押し当てた。
「わたしは、お前に前向きなこと言ってほしいわけじゃない」
言葉の途中で、小さく息が引っかかる。
「そんなの、自分でやる」
もう一度、袖が目元に上がる。
「でも、お前までやめたら」
そこで途切れた。
喉の奥だけが鳴って、続きが出てこない。
ひかりは一度うつむいて、乱暴に息を吸った。
「……どこ見ればいいの」
今度は、ほとんど音になっていなかった。
風が吹くたび、髪が顔に張りつく。
そのたびに払いのけるのに、指先が落ち着かない。右手で袖を引き、左手で前髪を払って、また右手で目元をこする。忙しいのに、どれも全然間に合っていなかった。
「ひかり」
「だから」
呼んだのに、止まらなかった。
「お前が、考えるのやめたら、わたし、困るんだよ」
「……」
「勝手に困るんだよ。わたしが」
最後のほうは、半分くらい息だった。
それでも喋るのをやめない。
やめたら、別のものが出ると分かっているみたいに。
「わたしはラノベの主人公だ!」
唐突に大きくなった声が、屋上の金網にぶつかって散った。
「おまえはなんだ!」
語尾でまた割れる。
ひかりはたぶん自分でもそれに腹を立てた。ぐしゃりと袖で頬をぬぐう。すぐ次があふれて、また同じところが濡れる。
「なんか言えよ」
「……」
「後始末でも、共犯でも、なんでもいいから」
声がだんだん低くなる。
低くなるのに、震えだけは隠せない。
ひかりがこんなふうに喋るのを、僕は知らなかった。
いつもなら、相手が返す前に次の言葉が出るのに、今は一つ言うたびに息が足りなくなって、足りないまま次を押し出している。
「知らない」
やっと出たのは、それだけだった。
ひかりはそこで初めて、一歩、こっちへ来た。
踵が床を擦る音がした。
「知らないなら、教えてやる」
袖で拭った頬がもう赤い。
目元はひどいことになっているのに、そこだけは妙にまっすぐだった。
「お前も主人公だ」
僕は何も言えなかった。
「お前の書くラノベの!」
ひかりの肩が跳ねる。
大きい声を出した反動で息が乱れて、次の言葉が少し遅れる。
「誰かの終わりを、勝手に綺麗にするために書いてるんじゃないだろ」
「……」
「投げないためだろ」
「……ひかり」
「苦しくても、自分で考えるためだろ」
そこまで言って、ひかりはようやく黙った。
黙ったというより、続かなくなった。
口を開いたまま一度顔を背ける。
肩で息をしている。
それでも、逃げるみたいに目を逸らしたままでは終わらせなかった。もう一度こっちを見て、鼻にかかった声で言う。
「考えるのやめるな、真壁湊」
慰めじゃなかった。
許しでもなかった。
突き放しているみたいで、でも、そこに立てと命じていた。
僕はフェンスから背中を離した。
すぐに何かが解けたわけじゃない。
でも、さっきまでみたいに、全部を閉じたままではいられなかった。
ひかりは雑に鼻をすすって、顔をそむけた。
「……情けな」
「どっちが」
「両方」
答えた声がまだ少し濡れている。
「でも、次があるなら」
「うん」
「逃げるな」
今度は、すぐには返事をしなかった。
しなかったけれど、もう、さっきみたいに“帰れ”とも思えなかった。
帰り際、ひかりは不意に僕の袖をつまんだ。
「明日、来い」
「まだ無理かも」
「じゃあ昼から」
「雑だな」
「いいから来い」
そこで一度言葉を切る。
「お前がいないと、困る」
それだけ言って、ひかりは先に階段のほうへ向いた。
「……後始末が下手になる」
「あとづけ下手だな」
「うるさい」
その返しが少しだけいつも通りで、僕はようやく息を吐いた。
部屋に戻ってから、机の上のノートを開く。
白いページを見ているうちに、閉じたままにしていたパソコンのことを思い出した。
電源を入れる。
真っ白な画面が、暗い部屋の中でやけに明るかった。
カーソルが点滅する。
しばらく見てから、僕はひとつだけ打ちこんだ。
**考えるのをやめない。**




