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第2章 10話 最善の破綻

榊原が倒れた、と連絡を受けたのは日曜の朝だった。

 過労と睡眠不足。診断名はそれだけだ。けれど実際は、それだけでは済まないことを、僕は病室へ向かう途中でもう分かっていた。

 倒れる人は、たいてい倒れる前から壊れている。


 病室の榊原は、点滴につながれたまま、それでも僕たちを見ると安心したように笑った。

「すみません。大げさになっちゃって」

 その一言で、ひかりの顔が硬くなる。

「大げさじゃない」

「でも、僕、ちょっと休めば」

「ちょっとじゃねえよ」

 ひかりの口が悪くなるのは、本気で怖いときだ。

 榊原は困ったように笑った。怒られているのに、どこか嬉しそうですらある。

 それがもう異常だった。


 看護師が席を外したあと、担任が僕へ小さく言った。

「君たち、榊原くんに相談されていたんだろう」

「多少は」

「机の中から、ずいぶん色々出てきた」

 その一言に、嫌な予感が形を持つ。

 ベッド脇の棚に置かれた私物の中に、ノートが混ざっていた。担任はそれを一瞬ためらってから僕へ見せた。

『最善の終わり方』

 僕のノートと同じ見出し。中身は、相談案件ごとの分岐、誰を先に慰めるか、誰へどの言葉を渡すか、誰に責任を見せないか。模倣だった。しかも、僕よりずっと切実な文字で。

『自分が減れば、丸く収まる』

『先に謝れば、相手は怒れない』

『誰かのために起きているなら、眠くても意味がある』

 読んだ瞬間、胃の底が冷えた。


「先輩たちが教えてくれたから」

 榊原は微笑んだ。

「自分も誰かを救おうと思えたんです」

 恨みはない。責める気配もない。ただ感謝だけがある。

 それが、一番きつかった。


 僕はノートを閉じようとしたが、担任がもう一枚だけ見せた。そこには相談件数と睡眠時間が並んでいた。

『三時間。まだ大丈夫』

『二時間半。七瀬さんの件、先に謝る』

『徹夜。これで丸く収まるなら安い』

 数字にされると、自己犠牲は急に実在感を帯びる。

「誰も気づかなかったのか」

 僕は聞いた。問いの形をしていたが、ほとんど自分へ向けていた。

 担任は苦い顔で答える。

「周囲には、頑張っているように見えていた」

 そりゃそうだ。僕もそう見ていた。


 病院を出たあと、ひかりは自販機の前で僕の腕をつかんだ。

「見るな」

「もう見た」

「それ以上、読まなくていい」

「読まないと」

「読んでどうする」

「僕が何をしたか確認する」

 ひかりは歯を食いしばるように黙った。

 僕はそこで、ようやく自分の中の何かが割れる音を聞いた気がした。


 学校に残っていた榊原の机には、相談メモが大量に残っていた。

 誰が誰を好きで、誰が家で怒鳴られていて、誰が進学で悩み、誰が眠れていないか。全部を一人で抱え込んでいた痕跡。

 その隅に、僕の言葉が何度も書き写されている。

『次の会話が続く終わり方』

『犯人を出すだけでは残る』

『背負っていい責任』

 僕が言った。確かに僕が言った。

 ただし、本来の文脈から少しずつ外れた形で。

「全部じゃない」

 ひかりが小さく言う。

「全部お前のせいじゃない」

「一部でも十分だ」

「そうやって切るな」

「切ってるのは僕じゃない」

 僕はノートの一行を指差した。

『自分が減れば、丸く収まる』

「これ、僕の言葉の先にある」

「飛躍してる」

「でも飛べる形にしてた」


 その日の見舞いの帰り、榊原は最後にまた笑った。

「先輩たちがいてくれて、よかったです」

 感謝しかなかった。

 恨みが一切ないことが、逆に致命傷だった。

 もし責められたなら、まだ反論も謝罪もできた。けれど感謝だけがあると、残るのは自分のしたことだけになる。


 夜、僕はノートを閉じた。

 “最善の終わり方”という言葉が、急に気持ち悪く見えた。

 人を生かす技術だと思っていたものが、人を自己犠牲へ慣らす文章だったのではないか。

 少なくとも榊原は、そう受け取った。

 しかも、それは完全に善意の連鎖だった。

「……害悪だ」

 声に出した瞬間、言葉のほうが正しいと思えた。

 無能ですらない。人を壊す形でしか役に立てないなら、それはもう害悪だ。

 ノートを引き出しに押し込み、原稿データも閉じた。

 書くことも、考えることも、何かの結末へ触れることも、もうしてはいけない気がした。

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