第2章 9話 いちばんの感謝
冬休み前、榊原が関わっていた相談の一つが破綻した。
不登校気味だった一年の女子へ、無理に教室復帰の段取りを組んだ件だ。本人はまだ準備ができていなかったのに、周囲の善意が先走った。
当日、その子は昇降口で動けなくなり、そのまま帰ってしまった。
表向きの責任は担任と保護者調整の不備にある。けれど榊原は、全部自分の言葉が足りなかったせいだと思い込んだ。
空き教室の椅子に座ったまま、榊原は何度も同じことを言った。
「僕が、もっとちゃんと」
「やめろ」
ひかりが珍しくきつく言う。
「全部を自分の不足にするな」
「でも、僕が復帰の話を急がせたから」
「それは事実。でも事実を“全部自分が悪い”へ短絡させるな」
榊原はうつむいた。
僕はそこで、本来ならひかりに同意すべきだった。
けれど、違うことを言ってしまった。
「榊原」
彼が顔を上げる。
「今回、お前は悪いんじゃない。むしろ、誰かのために最後まで考えた」
ひかりがこちらを見る。止めろ、という目だった。
それでも僕は続けた。
「責任を感じるのは分かる。でも、それは背負っていい責任だ」
「湊」
ひかりの声が低くなる。
「いまのは駄目」
「崩れるよりましだ」
「それ、立て直してない。許可してるだけ」
僕は答えなかった。
榊原がいま壊れたら、積み上げてきたものも全部崩れる気がした。だから優しい言葉で支えるほうを選んだ。
たぶん、その時点で間違っていた。
そのあと、ひかりは僕を廊下へ引きずり出した。
「何をしたか分かってる?」
「分かってる」
「分かってない。いま榊原が欲しかったの、免罪じゃない」
「じゃあ何だ」
「一緒に背負う相手」
その言葉に、僕は返せなかった。
確かに僕は、榊原へ“背負っていい”と許可を出しただけで、一緒に持つとは言っていない。
「でも、あそこで全部否定したら」
「全部否定しろなんて言ってない」
ひかりは苛立ちを押し殺すように息をついた。
「湊、お前、いま“きれいに収まる言葉”を選びすぎ」
夕方、榊原は缶コーヒーを僕に渡してきた。
「先輩に会えてよかったです」
「急に何」
「先輩の言う“最善”って、すごくきれいだから」
笑顔だった。
まっすぐで、感謝だけの顔。
ひかりが少し離れたところで、その笑顔を嫌なものでも見るみたいに眺めている。
「きれいじゃないよ」
僕はそう返した。
「そんなことないです。僕、先輩の言葉で何度も助かりました」
その感謝が、なぜか妙に重かった。
「助けられてるなら、誰か一人で全部持つな」
ひかりが突然、低く言う。
榊原はきょとんとしたあと、困ったように笑った。
「はい。……でも、僕、できるだけ頑張ります」
それが答えになっていないことに、本人だけが気づいていない。
帰り道、ひかりが黙ったままついてきた。
駅前の信号でようやく口を開く。
「今日のあれ、最悪」
「分かってる」
「分かってない。『背負っていい責任だ』って何」
「いま榊原を否定したら、もっと崩れる」
「だからって、“もっと背負え”って言うの?」
「言ってない」
「同じだよ」
信号が変わる。人の流れが動き出す。
それでもひかりは渡らず、僕を見た。
「湊、お前、感謝されるの好きになってる」
その指摘は痛かった。
「……否定はしない」
「そこまで自覚してるなら、なおさら止まれ」
「止まれるなら苦労しない」
「するよ。そこは主人公っぽく頑張れ」
「お前に言われたくない」
夜、ノートを開いたが、何も書けなかった。
“最善の終わり方”という見出しだけが、やけに虚しく見える。
それでも最後に、無理やり一行だけ足した。
『きれいな言葉は、人を支える。きれいすぎると、人を縛る。』
その文字が、後から自分の首を絞めることになると、この時の僕はまだ知らない。




