第2章 第9話 いちばんの感謝
冬休み前、榊原が関わっていた相談の一つが破綻した。
不登校気味だった一年の女子へ、無理に教室復帰の段取りを組んだ件だ。本人はまだ準備ができていなかったのに、周囲の善意が先走った。
当日、その子は昇降口で動けなくなり、そのまま帰ってしまった。
表向きの責任は担任と保護者調整の不備にある。けれど榊原は、全部自分の言葉が足りなかったせいだと思い込んだ。
空き教室の椅子に座ったまま、榊原は何度も同じことを言った。
「僕が、もっとちゃんと」
「やめろ」
ひかりが珍しくきつく言う。
「全部を自分の不足にするな」
「でも、僕が復帰の話を急がせたから」
「それは事実。でも事実を“全部自分が悪い”へ短絡させるな」
榊原はうつむいた。
僕はそこで、本来ならひかりに同意すべきだった。
少なくとも、「背負っていい」なんて言い方をしてはいけなかった。
責任を感じるな、と切り捨てるのも違う。けれど背負わせていい量を測らずに、責任感そのものへ価値を与えたら、それはもう優しさじゃない。
きれいに見える言葉は、その場を丸くする。丸くしながら、あとから静かに首を絞めることがある。
僕はずっと、その手の言葉を人より少しうまく選べると思っていた。その思い上がりがいま、ひかりの「最悪」という一言の前に、やけに正しい形で置かれていた。
けれど、違うことを言ってしまった。
「榊原」
彼が顔を上げる。
「今回、お前は悪いんじゃない。むしろ、誰かのために最後まで考えた」
ひかりがこちらを見る。止めろ、という目だった。
それでも僕は続けた。
「責任を感じるのは分かる。でも、それは背負っていい責任だ」
「湊」
ひかりの声が低くなる。
「いまのは駄目」
「崩れるよりましだ」
「それ、立て直してない。許可してるだけ」
僕は答えなかった。
榊原がいま壊れたら、積み上げてきたものも全部崩れる気がした。だから優しい言葉で支えるほうを選んだ。
たぶん、その時点で間違っていた。
そのあと、ひかりは僕を廊下へ引きずり出した。
廊下はもう薄暗く、窓の外のグラウンドも人気がなかった。だから余計に、ひかりの声だけが妙に近く聞こえた。怒鳴っているわけじゃない。けれど抑えた声のほうが、この女は怖い。
僕の言葉は、たしかに榊原をその場で立たせたのかもしれない。でも立たせることと、歩かせることは別だ。しかも、その先の坂道がどれくらい急かを、僕は知っているはずだった。知っていながら、そこで一番よく見える言葉を置いた。ひかりが怒っていたのは、たぶんその器用さに対してだった。
「何をしたか分かってる?」
「分かってる」
「分かってない。いま榊原が欲しかったの、免罪じゃない」
「じゃあ何だ」
「一緒に背負う相手」
その言葉に、僕は返せなかった。
確かに僕は、榊原へ“背負っていい”と許可を出しただけで、一緒に持つとは言っていない。
「でも、あそこで全部否定したら」
「全部否定しろなんて言ってない」
ひかりは苛立ちを押し殺すように息をついた。
「湊、お前、いま“きれいに収まる言葉”を選びすぎ」
夕方、榊原は缶コーヒーを僕に渡してきた。
「先輩に会えてよかったです」
「急に何」
「先輩の言う“最善”って、すごくきれいだから」
笑顔だった。
まっすぐで、感謝だけの顔。
ひかりが少し離れたところで、その笑顔を嫌なものでも見るみたいに眺めている。
「きれいじゃないよ」
僕はそう返した。
「そんなことないです。僕、先輩の言葉で何度も助かりました」
その感謝が、なぜか妙に重かった。
「助けられてるなら、誰か一人で全部持つな」
ひかりが突然、低く言う。
榊原はきょとんとしたあと、困ったように笑った。
「はい。……でも、僕、できるだけ頑張ります」
それが答えになっていないことに、本人だけが気づいていない。
帰り道、ひかりが黙ったままついてきた。
駅前の信号でようやく口を開く。
「今日のあれ、最悪」
「分かってる」
「分かってない。『背負っていい責任だ』って何」
「いま榊原を否定したら、もっと崩れる」
「だからって、“もっと背負え”って言うの?」
「言ってない」
「同じだよ」
信号が変わる。人の流れが動き出す。
それでもひかりは渡らず、僕を見た。
「湊、お前、感謝されるの好きになってる」
その指摘は痛かった。
「……否定はしない」
「そこまで自覚してるなら、なおさら止まれ」
「止まれるなら苦労しない」
「するよ。そこは主人公っぽく頑張れ」
「お前に言われたくない」
夜、ノートを開いたが、何も書けなかった。
“最善の終わり方”という見出しだけが、やけに虚しく見える。
それでも最後に、無理やり一行だけ足した。
『きれいな言葉は、人を支える。きれいすぎると、人を縛る。』
その一文を見つめていると、これまで自分が書いてきた「最善の終わり方」が、急に別の顔をし始めた。事件のあとに残る傷を減らしたい。
誰か一人へ石が集まらないようにしたい。考え自体はたぶん間違っていない。けれど、その“きれいさ”に救われた気分になった人間が、今度は同じ手順で自分を削り始めたらどうなるのか。榊原はまさにそこへ落ちかけている。しかも僕が置いた言葉を、丁寧に拾って。
窓の外はもう真っ暗で、通学路の信号だけが規則的に色を変えていた。世界は普通に動いているのに、こっちだけがどこかで踏み外したまま止まっている感じがした。ひかりの「一緒に背負う相手」という言葉が遅れて効いてくる。
僕が榊原に与えたのは、背負ってもいいという許可だった。必要だったのは、背負わせない手つきか、背負うならこちらも手を離さないという約束だったのに。
しかも僕は、その約束を口にする代わりに、ノートへだけ正しいことを書けてしまう。
書けてしまうから、なおさら始末が悪い。現実の一人を前にしたときに必要なのは、整理された一行ではなく、つきあい続ける面倒さのほうなのに。
ひかりが何度もそこで怒る理由を、僕はようやく遅れて理解し始めていた。
理解が遅いぶんだけ、誰かが先に削れていく。そういう時間差まで含めて、僕はまだ甘かった。
たぶん一番まずいのは、その遅れがいつも静かなことだった。
気づいた時には、もう取り返しがつかないくらいに。
それでも、遅かった。
それでも、その夜の僕にはまだ言葉が足りなかった。
榊原へ何を返せばよかったのか、ひかりに何と認めればよかったのか、そのどちらも曖昧なまま、ノートにだけは正しそうな一文を書けてしまう。その器用さが嫌だった。
正しいことを考える力と、目の前の一人と一緒に泥臭く留まる力は、同じじゃない。僕はたぶん前者を持っていて、後者を甘く見ていた。ひかりが怒っていたのはそこだ。言葉を置いて終わるな、という単純なことを、僕だけがまだうまく受け取れていなかった。
空き教室で榊原がうつむいていたとき、あいつに必要だったのは、自分の責任感を褒めることじゃなかった。
責任感があるからこそ危ない、と言って止めることだった。僕はそこを取り違えていた。
ひかりはたぶん、その取り違えに一番先に気づいていた。
榊原に必要だったのは、きれいな整理ではなく、「今ここで止まれ」と言われることだったのかもしれない。僕はずっと、止めるより整えるほうを先に選んできた。
その選び方の癖が、ここへ来て一番悪い形で出ていた。
その文字が、後から自分の首を絞めることになると、この時の僕はまだ知らない。




