第2章 6話 拍手の向こう側
文化祭当日、校内は成功の匂いで満ちていた。
人は成功しているときほど、小さな悲鳴を聞き逃す。
榊原蓮の企画したスタンプラリーは大当たりだった。受付前には列ができ、校内放送では何度も名前が呼ばれる。壇上で表彰を受ける榊原は、少し照れた顔で、それでもきちんと全方向へ頭を下げていた。
「似合ってるじゃん、拍手」
ひかりが言う。
「似合いすぎるのが怖い」
「贅沢」
でも僕がそう言った理由を、ひかりは分かっていた。
榊原は誰かに喜ばれることへ、必要以上にまっすぐだ。
受付の前を通ると、一年の女子が息を切らして走ってきた。
「榊原先輩、景品足りません!」
「え、もう?」
榊原は表彰状を抱えたまま振り返る。
「真壁先輩、在庫表って……」
「落ち着け。足りないんじゃなくて、仕分けが遅れてるだけだ」
僕が言うと、榊原は「ですよね」とほっと笑う。
笑う前に、自分で考える余裕がない。そのことが妙に気になった。
問題が起きたのはその裏だった。
運営補助に入っていた二年の女子、七瀬が休憩室で倒れた。過労と貧血。さらにその直後、匿名掲示板に書き込みが現れる。
『榊原は他人の善意を利用して拍手を集めている』
文化祭の喧騒の中で、その一文だけが妙に冷たく浮いていた。
「追う?」
ひかりが掲示板の画面を見せる。
「追う」
「即答」
「でも、書いたやつだけじゃ足りない」
「分かってる。ラノベの主人公ならそうする」
「だから先に倒れた側を見ろ」
七瀬は保健室のベッドで、目を覚ましたあとも「私が勝手に頑張っただけです」と繰り返した。
「榊原くんは悪くない」
「言うと思った」
ひかりが小さく吐き捨てる。
僕は七瀬の担当表を見た。午前だけで受付補助、誘導、景品管理、会計補助まで入っている。偏りすぎだ。
「誰がこのシフト組んだの」
「……私です」
七瀬が言った。
「榊原くん、忙しそうだったから」
「頼まれてもないのに?」
「はい」
それが善意であるほど厄介だった。
「休みたかった?」
僕が聞くと、七瀬は少し迷ってから小さくうなずいた。
「でも、みんな大変そうだったし」
「その“でも”が一番危ない」
ひかりが言う。
「やりたいことと、やらなきゃいけない気分をごっちゃにするな」
掲示板の書き込み主は、別の実行委員だった。彼は榊原に恨みがあるわけではなく、むしろ感謝していた。
「でも、あいつ、何でも“ありがとう”で受け取るから」
彼は言う。
「断れないやつを見てると、ムカつくんです」
「で、匿名で刺した?」
ひかりが問う。
「刺したかったわけじゃない。ただ、誰か言わないと」
「言うなら本人に言え」
「言えないから書いたんです」
その返しに、ひかりが言葉を切る。
言えないから匿名になる。そこはいつも変わらない。
僕は彼に、七瀬のシフト表を見せた。
「お前、この偏り知ってた?」
「……薄々」
「榊原本人には?」
「言っても『大丈夫』って笑うから」
「笑う相手に、さらに拍手を足したのがお前の書き込み」
彼は黙った。
「誰かが言わないとって思うなら、まず倒れた側を休ませる方向へ動け」
「……はい」
その“はい”は、後悔半分、反発半分だった。
僕たちは会議室で、運営の偏りと匿名書き込みの件を分けて扱った。書き込み主は処分対象になるが、それだけでは何も変わらない。
「七瀬さんが勝手に背負っただけじゃない」
僕は表を示した。
「“頼みやすい人”に仕事が寄る構造のほうが問題」
「じゃあ、僕がちゃんと断るべきでした」
榊原が言う。
「そういう言い方をするな」
ひかりがすぐに止める。
「お前だけが断れば済む話にするな。振る側の責任もある」
榊原は少し考えてから、素直にうなずいた。
「……分かりました」
分かっている。たぶん本当に。けれど、その理解が自分へどう入るかが危うい。
表彰式のあと、榊原は僕たちに缶ジュースを差し出した。
「先輩たちのおかげで、今日うまくいきました」
ひかりはジュースを受け取りながら、じっと榊原を見る。
「成功って、見えてる拍手だけじゃないよ」
「はい」
「倒れる人を出した時点で、ちょっと失敗」
榊原はまっすぐうなずいた。
「次は、そうならないようにします」
その言い方は正しい。正しすぎる。
僕はそこで、もっと強く止めるべきだったのかもしれない。
けれどあの時の僕は、それを“成長の痛み”として受け取ってしまった。
帰り際、体育館の裏口でひかりが僕に言う。
「いまのうちに線を引け」
「何の」
「榊原が背負っていい量の線」
「そんな器用なことできるか」
「できなくてもやれ。お前、できると思われてるから」
その言い方が少し刺さった。
できると思われることは、悪くないはずだった。
それが後に、どれほど危うい期待になるのか、この時点ではまだ半分も分かっていなかった。




