第九章:待つという戦術
新宿の雑居ビルの三階。
小さなスナック「ろくでなし」の赤い看板が、夜の街に灯っていた。
店内は、昭和の雰囲気を残した内装だ。カウンターに数席、奥に小さなテーブル席がいくつか。壁には、往年の歌手のポスターが貼られている。
真秀は、カウンターに座っていた。
隣には花山と夢見。少し離れた席には弓山と、数名の強行犯捜査係の刑事たち。
皆、疲れた表情をしていた。
「はい、真田ちゃん。水割り」
カウンターの向こうから、声がかけられた。
スナックのママ、ドリアン。本名は剛力剛。五十二歳のニューハーフだ。長年この店を切り盛りしている、真秀たちの馴染みの存在だ。派手なメイクに、豪華なドレス。だがその体格は、男性そのものだった。ゴツい手が、グラスを差し出す。
「ありがとうございます、ママ」
真秀がグラスを受け取る。
「相変わらず、大変そうね」ママが心配そうに言った。「目の下、隈できてるわよ」
「連続殺人事件でして」花山が溜息をついた。「しかも、犯人の手がかりが掴めないんです」
「あら、大変」
ママが同情の表情を浮かべた。
「芹沢幸次郎っていう科学者が犯人じゃないかって睨んでるんですけど」夢見がグラスを傾けた。「行方不明なんですよね。所在捜査をしても、全然手がかりが出てこない」
「過去の住所、職場、知人、全部当たりましたけど」花山が続けた。「一年前に姿を消してから、誰も彼を見ていません」
真秀は黙って、グラスの水割りを見つめていた。
芹沢幸次郎。
どこに消えたのか。
そして、どこから現れるのか。
「ねえ、ママ〜」
カウンターの端で、弓山が声を上げた。
「恋愛相談、いい?」
「あら、美怜ちゃん。いいわよ〜」
ドリアンが弓山の方に移動した。その動きは、体格に似合わず優雅だった。
「実はね、気になる人がいるんだけど」弓山が頬を赤らめた。「こっちからはアピールしてるつもりなんですけど、全然振り向いてくれないんですよー」
「あら、それは大変ね」ドリアンが低い声で笑った。「でもね、美怜ちゃん。男っていつもそうよ。どれだけ追っかけても振り向いてくれない。そういうときはね、追っかけるのをやめて待ってればいいの。案外向こうから寄ってきたりするんだから」
真秀の手が、止まった。
追っかけるのをやめて、待つ。
向こうから、寄ってくる。
真秀の脳裏に、何かが閃いた。
芹沢幸次郎を追いかけても、見つからない。
ならば――
待てばいい。
彼が現れる場所で。
そして、彼が現れる場所とは――
ビーストの残りのメンバーの元だ。
真秀は立ち上がった。
「さすがママ。人生の達人!」
真秀が突然大きな声で言った。
ドリアンは、きょとんとした顔をした後、満面の笑みを浮かべた。
「そうよ〜。男の事はなんでも私に聞きなさ〜い」
ドリアンは、恋愛相談のことだと思っている。
真秀は微笑んだ。
「花山、夢見」
真秀が二人を見た。
「明日から、ビーストの残りのメンバー、衛藤ミキ、華村凛、榎本大輝の三名を二十四時間体制で監視する。芹沢が現れるのを待つ」
花山と夢見の目が、輝いた。
「なるほど!」
「そっちから来るなら、待ち伏せすればいい」
夢見が拳を握った。
その時――
スナックのドアが開いた。
「よう、真田。飲んでるのか」
大柄な男が入ってきた。
桃源信之だ。
「桃源……」
真秀が振り返る。
「おう」桃源がカウンターに座った。「ママ、ビール」
「はいはい、信之ちゃん」
ドリアンがビールを出す。
桃源は真秀を見て、眉をひそめた。
「どうしたんだ、目の下に隈を作って。そんなんじゃ嫁の貰い手がなくなるぞ」
真秀の表情が、一変した。
「あんたって相変わらずデリカシーってもんが無いわね」
真秀が桃源を睨んだ。
「そんな調子じゃいつかパワハラセクハラカスハラモラハラ何とかハラで訴えられて痛い目に会うのがオチだわ。ママの元で人の心ってもんを勉強し直せばいいのよ。この脳筋が!」
桃源の目が、潤んだ。
「ひ、酷いじゃないか……」
カウンターの奥から、若い女性の従業員が現れた。二十一歳の大学生、かなえ。元ギャルで、明るい茶髪にピアス。
「はい、桃源さん。水割り」
かなえが、グラスを桃源の前に置いた。
「あ、ありがとう……」
桃源が、しょんぼりとグラスに手を伸ばす。
「つーかさ、桃源さん。いつまでメソメソしてんの?」
かなえが、容赦ない口調で言った。
「男でしょ?もっとシャキッとしなよ。そんなんだから真田さんにボコボコにされんのよ」
「う……」
桃源が、さらに肩を落とした。
「大丈夫よ、信之ちゃん」
ドリアンが桃源の肩を叩いた。ゴツい手だが、優しい仕草だった。
「ママが励ましの歌、歌ってあげるわ」
ドリアンがカラオケのリモコンを操作する。
イントロが流れた。
そして、ドリアンが歌い始めた。低いが伸びのある声だった。
「♪ろくでなし〜 あんたはろくでなし〜」
店内に、刑事たちの笑い声が響いた。
「ママ、慰めになってない!」
夢見が笑いながら叫んだ。
花山も笑っている。弓山は手を叩いて喜んでいる。
桃源は、肩を落としていた。
真秀は、その光景を見ながら、小さく笑った。
だが、すぐに表情を引き締めた。
真秀は桃源を真剣な目で見た。
「桃源」
「ん?」
桃源が顔を上げる。
「近々、あなたの助けが必要になるかも知れない」
桃源の表情が、一瞬で変わった。
「例の事件のことだな」
「ええ」
桃源は頷いた。
「任せとけ」
桃源がビールを一口飲んだ。
「俺の関わってるプロジェクト、間もなく完成する。それはこの事件にきっと役に立つ」
真秀は、桃源の目を見た。
その目には、確かな自信があった。
「何のプロジェクトかはわからないけど」真秀が言った。「あなたの『任せとけ』は昔から頼りにはなるから。期待してる」
桃源が笑った。
「おう。期待してくれ」
二人は、グラスを合わせた。
背後では、ドリアンの歌声が響いている。
「♪それでもあんたが好きなのよ〜」
弓山は、カウンターの端で桃源をちらりと見た。そして、すぐに視線を逸らした。
真秀は、窓の外を見た。
夜の新宿。
無数の光が、街を照らしている。
この街のどこかに、芹沢幸次郎がいる。
そして、近いうちに――
彼は、必ず姿を現す。
その時、必ず奴らを捕まえる。
真秀の目に、静かな決意が宿っていた。




