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第三章:失われた未来

三年前――


雨が降っていた。


冷たい秋の雨が、東京の街を濡らしていた。横断歩道の白線が、街灯の光を反射して光っている。


午後九時。住宅街の交差点。


信号は青だった。


手を繋いで渡る、母と子。母親は三十代半ば、優しい顔立ちの女性。息子は七歳ほど、ランドセルを背負っている。塾の帰りだろうか。


「ママ、今日ね、算数で百点取ったんだよ」


「すごいわね、優太。お父さんに話したら、きっと喜ぶわ」


母親――ゆり子が、息子の頭を撫でた。


「パパ、今日も遅いの?」


「そうね。でも、大事なお仕事だから。優太も、大きくなったらパパみたいな立派な人になるのよ」


二人は笑顔で、横断歩道を渡っていた。


その時――


轟音。


交差点に、猛スピードの車が突っ込んできた。


赤信号を無視して。


ブレーキの音すらなく。


ゆり子は息子を庇おうとした。だが間に合わなかった。


車は、二人を跳ね飛ばした。


小さな体が、宙を舞う。地面に叩きつけられる。


雨に濡れたアスファルトが、赤く染まった。


車は、そのまま走り去った。


数日後。


都内の葬儀場。


白い菊の花が、祭壇を埋め尽くしている。二つの遺影。優しい笑顔のゆり子と、無邪気に笑う優太。


喪服の男が、遺影の前に座っていた。


四十代前半。痩せた体躯に、疲れ果てた表情。目は虚ろで、涙も枯れ果てたように乾いている。


科学者だった。


再生医療の研究者として、国家プロジェクトに携わっていた。人体組織の再生技術。それは、多くの命を救う可能性を秘めた研究だった。


だが今、彼にとって一番大切だった命は、もう戻らない。


「このたびは、誠に痛ましいことで……」


声が聞こえた。


科学者は顔を上げた。


そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。六十代前半。威厳のある顔立ちに、高級なスーツ。


衛藤慎一郎。


現職の総務大臣。与党の重鎮で、次期総理候補とも目される実力者。そして、科学者の研究を統括する国家プロジェクトの責任者だった。


「衛藤、大臣……」


科学者は立ち上がろうとしたが、衛藤が手で制した。


「いや、座っていてくれ」衛藤が科学者の隣に座った。「本当に、なんと言葉をかければいいか……」


科学者は黙っていた。


「犯人は捕まったそうだな」


「はい……秘書の方が、自首されたと」


「そうだ」衛藤は目を伏せた。「私の秘書だった男だ。飲酒運転で、このような悲劇を……彼も、自らの罪を苦にして、昨日、自ら命を絶った」


科学者の手が、僅かに震えた。


「大臣の、秘書が……」


「ああ。私の監督不行き届きだ」衛藤は深く頭を下げた。「本当に、申し訳ない。だが……」


衛藤は顔を上げた。その目には、同情と、そして別の何かが混じっていた。


「君には、まだやってもらわねばならない仕事がある。国家プロジェクトは、重要な局面を迎えている。多くの人々の命を救うための研究だ。辛いだろうが……君の力が、必要なんだ」


科学者は、衛藤を見た。


この男は、今、何を言っているのか。


妻と息子を失ったばかりの自分に、仕事の話を。


「分かっています」


科学者は、搾り出すように言った。


「研究は、続けます。それが……それが、二人の願いでもありますから」


「そうか」衛藤は満足そうに頷いた。「君なら、そう言ってくれると思っていた。国も、全面的に支援する。何か必要なものがあれば、遠慮なく言ってくれ」


衛藤は立ち上がり、科学者の肩を叩いた。


「君の研究が、多くの命を救う。それを忘れないでくれ」


そう言い残して、衛藤は去っていった。


科学者は、再び遺影を見つめた。


ゆり子の笑顔。優太の笑顔。


もう、二度と見ることのできない笑顔。


彼は、ただ黙って座っていた。


それから、一ヶ月後。


科学者は研究施設に戻っていた。


地下にある、巨大な研究室。最先端の設備が並び、培養タンクや解析装置が稼働している。


人体組織の再生。細胞レベルでの修復技術。それは、失われた臓器を再生し、多くの患者を救う可能性を秘めていた。


だが科学者の心は、もう研究には向いていなかった。


ただ、日々を過ごすために、機械的に実験を繰り返していた。


その日、施設に来客があった。


「先生、政治家の御子息が見学に来られています」


助手が告げた。


「政治家?」


「ええ。北条議員の息子さんだそうです。大学で生物学を専攻されているとかで、国家プロジェクトに興味があるとのことです」


科学者は眉をひそめた。北条誠一郎。衛藤大臣の派閥の若手議員だ。


「分かった。案内してくれ」


研究室に入ってきたのは、二十代半ばの若い男性二人だった。


一人は、スーツ姿の青年。それなりに整った顔立ちだが、どこか不遜な雰囲気がある。


「初めまして。北条隆史と申します」


北条隆史。その名前に、科学者は僅かに反応した。


「こちらは友人の森田です」


もう一人の青年も、同じような雰囲気だった。裕福な家庭で育ち、何不自由なく生きてきた人間特有の、傲慢さが滲んでいる。


「どうぞ、ご覧ください」


科学者は事務的に施設を案内した。培養タンク、解析装置、実験データ。


だが二人は、あまり興味がなさそうだった。


「へえ、これが国家プロジェクトねえ」


北条が軽い口調で言った。


「正直、よく分かんないけど」


森田が笑った。


科学者は、内心で嫌悪を感じていた。だが表情には出さず、淡々と説明を続けた。


案内が終わり、二人は談話室で休憩することになった。


科学者は、自分の研究室に戻ろうとした。


その時――


「なあ、あの秘書の件、マジでやばかったよな」


北条の声が、廊下に響いた。


科学者は、足を止めた。


「ああ、衛藤さんの秘書?あれ、お前の親父が揉み消したんだろ?」


森田の声。


「そうそう。実は俺の車だったんだよ、あれ」


北条が笑った。


科学者の体が、硬直した。


「マジかよ。飲んでたんだろ?」


「ああ。クラブで朝まで飲んでさ。で、帰りにちょっとスピード出しすぎて。気づいたら何か跳ねてた」


「で、逃げたと」


「当たり前だろ。捕まったら俺の人生終わるし」


二人の笑い声が、廊下に響いた。


「でも親父がすぐに手を回してくれてさ。秘書の名義の車ってことにして、秘書に自首させた。秘書には金も渡したし、まあ、Win-Winだろ」


「その秘書、自殺したらしいな」


「ああ、まあ、弱い奴だったんだろ。でも死人に口なしだし、逆に好都合だったけどな」


科学者の拳が、震えた。


「ていうか、あの時跳ねたの、確か親子だったんだろ?運が悪かったよなあ」


「お前が運が悪いんだよ。でもま、親父のおかげで無事だったんだから、感謝しろよ」


「してるって。今度、親父に高級時計でも買ってやるわ」


北条がさらに続ける


「ていうか、あの後すぐにビーストのメンバーで集まってその話した時、お前も含めてメンバー誰一人、自首した方が良いって言わなかったじゃん。そんな事のために人生損する必要ないって。」


「確かに。俺達みんなろくな死に方しないかもな。」 


二人は再び笑った。


科学者は、廊下の壁に手をついた。


膝が、震えていた。


ゆり子。


優太。


あの二人を殺したのは――


この男だ。


この、笑っている男が。


そして、それを揉み消したのは――


衛藤大臣と、北条議員。


科学者の視界が、赤く染まった。


怒り。


凄まじい怒りが、全身を駆け巡った。


だが、彼は動けなかった。


ただ、壁に手をついて、震えることしかできなかった。


その夜。


科学者は、研究室で一人、座っていた。


机の上には、ゆり子と優太の写真。


彼は、長い時間、その写真を見つめていた。


そして――


ゆっくりと立ち上がった。


培養タンクに近づく。


その中で、培養されている細胞。


人体組織の再生技術。


彼の手が、キーボードに触れた。


画面に、実験データが映し出される。


「許さない」


科学者の声が、静かに響いた。


「絶対に、許さない」


彼の目には、もう涙はなかった。


あるのは、ただ一つ。


冷たい、怒りだけだった。


「お前たちに、同じ苦しみを味わわせてやる」


科学者の指が、キーボードを叩き始めた。


新しい実験プログラムが、立ち上がる。


それは、もはや人を救うための研究ではなかった。


復讐のための、研究だった。


画面に映し出されるデータ。


遺伝子操作。


細胞融合。


生体兵器。


科学者の唇が、歪んだ笑みを浮かべた。


「待っていろ。お前たちの息子を、一人残らず――」


研究室の照明が、科学者の狂気に染まった顔を照らし出していた。

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