第二章:映像の中の悪夢
警視庁本部、刑事部長室。
真秀は固い椅子に座り、目の前の男を見据えていた。
刑事部長は五十代半ばの男だった。白髪混じりの髪を丁寧に整え、高級そうなスーツに身を包んでいる。机の上には家族写真が飾られ、壁には歴代の警察幹部との記念撮影が並んでいる。出世街道をひた走ってきた男の、典型的な部屋だった。
「真田係長」
部長の声は低く、抑揚がない。
「北条議員の件だが、慎重に、そして迅速に処理してもらいたい」
真秀は黙って頷いた。慎重に、迅速にだと。矛盾している。
「北条議員は次期内閣の有力候補だ。この事件が政治問題化することは避けねばならん」部長は指を組んだ。「マスコミへの情報は最小限に。そして、一週間以内に犯人を挙げろ」
一週間。真秀は内心で苦笑した。現場の状況から見て、これは複雑な事件だ。凶器の特定さえできていない。
「部長、この事件には不可解な点が多く――」
「だからこそだ」
部長が真秀の言葉を遮った。
「不可解な事件が長引けば、憶測が憶測を呼ぶ。北条議員の政治生命にも関わる。分かるな?」
真秀は部長の目を見た。そこにあるのは正義感ではない。保身だ。この男は、自分の残りの警察人生と天下り先を心配している。北条議員の機嫌を損ねたくないのだ。
「最善を尽くします」
真秀は短く答えた。これ以上、この男と話しても無駄だ。
「頼むぞ、真田係長。君の昇進にも関わる案件だ」
真秀は立ち上がった。自分は出世のために刑事になったわけではない。
部長室を出ると、真秀は深く息を吐いた。廊下の冷たい空気が、僅かに頭を冷やしてくれる。
政治的圧力。上からの命令。真秀はこの組織の歪みを、改めて感じていた。だが今は、それに囚われている場合ではない。
凶悪犯人を捕まえる。それだけだ。
強行犯捜査第三係の事務室に戻ると、すでに何人かの刑事が集まっていた。
「係長、お疲れ様です」
声をかけてきたのは、デスクでパソコンに向かっていた若い女性刑事だった。弓山美怜。二十代半ばで、真秀より七つ年下。データ解析の専門家として、半年前に配属されてきた。
小柄で可愛らしい顔立ち。明るい茶色の髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけている。その笑顔は、この殺伐とした職場では珍しいほど屈託がない。
「弓山、防犯カメラの解析は進んでる?」
「はい!ちょうど今、港区の映像を集めてるところです」
弓山は画面を指差した。そこには、複数の防犯カメラ映像のサムネイルが並んでいる。
「被害現場周辺のカメラ、全部で十二台あります。路地自体は死角ですけど、その手前の道路は映ってますよ」
「すぐに確認する。会議室を使おう」
真秀は弓山とともに、奥の会議室に向かった。
会議室の大型モニターに、防犯カメラの映像が映し出された。
時刻表示は、昨夜の午後十一時三十分。北条隆史が最後に目撃された時間帯だ。
「これが、被害現場に一番近いカメラです」
弓山が慣れた手つきでマウスを操作する。画面には、夜の住宅街の道路が映っている。街灯の明かりが、アスファルトを照らしている。
「人通りは?」
「ほとんどありません、この時間。ここは住宅街ですから」
映像が進む。午後十一時三十五分。画面の端に、スーツ姿の男性が現れた。
「これが北条隆史です」
弓山が映像を一時停止する。真秀は画面を凝視した。高級そうなスーツ。少しふらついた歩き方。どこかで飲んでいたのだろうか。
「一人?」
「はい。この後、路地に入っていきます」
映像が再生される。北条隆史は、カメラの死角である路地へと消えていった。
真秀は時計を見た。これから数分後、彼は命を落とす。
「その後は?」
「路地は死角なので……でも、路地の出口を映してるカメラがあります。そっちを見てください」
弓山が別の映像を開く。路地の反対側の出口だ。
午後十一時四十分。
画面に、何かが現れた。
真秀は目を凝らした。それは、最初、犬のように見えた。中型犬ほどの大きさの、四足歩行の生き物。
だが次の瞬間――
「え?」
弓山の声が、驚きに震えた。
画面の中で、その生き物の姿が、突然変わった。
四足が二足に。体が膨れ上がり、背丈が伸びる。犬の頭部が、何か別の、グロテスクな形状に変化していく。
それは、もはや動物ではなかった。
異型の、化け物だった。
「何、これ……」
弓山が呟いた。真秀も言葉を失っていた。
映像の中の生物は、二本足で立ち上がっている。人間よりも一回り大きな体躯。長い腕。そして、異様に大きな頭部。細部は暗がりで判別しづらいが、明らかに人間ではない。
それが、路地の中へと消えていく。
数分後。
その生物が、再び現れた。
何かを運んでいる、いや、引きずっている。
真秀は息を呑んだ。それは、北条隆史の遺体だった。
生物は遺体を路地の入口付近に放り投げると、その上に屈み込んだ。何かをしている。数秒後、生物が立ち上がる。
その両手には、何かが握られていた。
心臓と、脳だ。
「うそ……」
弓山の顔が青ざめた。
真秀も顔をしかめる。
だがそれで終わりではなかった。
画面の奥から、人影が現れた。
黒い装束。顔には仮面。その人物は、生物に近づくと、何かを手渡した。それを受け取った生物は、心臓と脳をその人物に渡す。
黒装束の人物は、それを何か袋のようなものに入れると、生物とともに闇の中へと消えていった。
映像が終わる。
会議室に、重い沈黙が落ちた。
「係長……あれ、何ですか?」
弓山の声は震えていた。真秀も、答えを持っていなかった。
あれは、何だ。
動物が、突然変異する。そして人を殺し、臓器を奪う。黒装束の人物は、その生物を操っているのか?
「もう一度、最初から見せて」
「は、はい……」
弓山が映像を巻き戻す。真秀は画面に釘付けになった。
犬のような生物。その変化。異型の姿。
これは、本当に現実なのか。
「係長!」
ドアが開き、花山が息を切らして入ってきた。夢見も後ろにいる。
「現場からです。周辺の聞き込みで、妙な証言が――」
「待って。まずこれを見て」
真秀は二人をモニターの前に呼んだ。
再生される映像。
花山と夢見の顔が、徐々に青ざめていく。
「な、何ですか、これ……」
夢見が呟いた。花山は黙ったまま、画面を凝視している。
「信じられないかもしれないが、これが現実よ」
真秀は立ち上がった。
「花山、周辺の聞き込み結果は?」
「あ、はい」花山が我に返った。「数件先の住民が、夜中に奇妙な鳴き声を聞いたと。犬の遠吠えのようだったが、途中から何か別の、聞いたことのない声に変わったそうです」
真秀は頷いた。映像と一致する。
「被害者について調べはついたか?」
「北条隆史、二十六歳。大学は一応卒業してますが、定職には就かず。父親の金で遊び歩いていたようです」夢見が資料を読み上げた。「昨夜も、六本木のクラブで深夜まで飲んでいたとの証言があります」
真秀は腕を組んだ。遊び呆けている息子。政治家の父。そして、この異常な殺害方法。
「この映像、誰にも見せるな。上には報告するが、マスコミには絶対に漏らすな」
「了解です」
花山たちが頷いた瞬間、真秀の携帯電話が鳴った。
「真田です」
「係長、第二の事件です」
当直の声が緊張していた。
「新宿区で遺体発見。状況が、港区の事件と酷似しています」
真秀はスマートフォンを強く握りしめた。
もう、始まっている。
「すぐに向かう。花山、夢見、お前たちは引き続き港区の事件の聞き込みを。弓山、映像の解析を続けて。特に、あの黒装束の人物を追って」
「了解!」
三人が一斉に動き出す。
真秀は会議室を出た。廊下を早足で進みながら、先ほどの映像が脳裏に焼き付いている。
あの生物。あの変化。
これは、もう普通の事件ではない。
何か、とんでもないことが起きている。
新宿区の現場は、繁華街から少し外れたビルの裏路地だった。
パトカーと鑑識車両が、すでに到着している。規制線の向こうには、野次馬が集まり始めていた。
「真田係長」
沖田が駆け寄ってきた。その表情は、朝よりもさらに険しい。
「また同じだ。心臓と脳が、ない」
真秀は規制線をくぐった。路地の奥に、白いシートが被せられている。
シートを捲ると、そこにあったのは、朝見たのと同じ光景だった。
激しく損壊した遺体。欠損した心臓と脳。引き裂かれた四肢。
「被害者は?」
「大企業の御曹司だ。森田グループの次男、森田健太、二十四歳」
沖田が資料を見せた。
「この人物も、遊び呆けていたタイプのようだ。昨夜、歌舞伎町で朝まで飲んでいたとの証言があるらしい」
真秀は遺体を見下ろした。
政治家の息子。企業の御曹司。どちらも、親の金で好き勝手に生きていた人間。
これは、偶然には見えない。
犯人には、何か明確な選別基準がある。
「死亡推定時刻は?」
「午前三時から五時の間」
真秀は時計を見た。今は午前十時。第一の事件から、わずか数時間。
「周辺の防犯カメラは?」
「確認中です。ただ、この路地も死角になっています」
真秀は立ち上がった。同じパターンだ。死角を選んで犯行に及んでいる。
黒装束の人物は、確実に計画を立てている。
そして、あの生物を使って――
「係長」
健康堂が近づいてきた。その顔には、困惑の色が浮かんでいる。
「傷の形状、港区の事件と完全に一致します。同一犯、いや、同一の凶器です」
「凶器の特定は?」
「それが……」健康堂は首を振った。「動物の噛み痕に見えるんですが、既知のどの動物とも一致しません。牙の形状が、異常なんです」
真秀は再び遺体に目を向けた。
異常な牙。
あの映像の中の生物。
すべてが、繋がり始めている。
だがまだ、全体像は見えない。
黒装束の人物は誰なのか。
なぜ心臓と脳を奪うのか。
あの生物は、何なのか――
真秀の思考が、携帯電話の着信で中断された。
「真田です」
「係長、聞いてください〜。防犯カメラ、ありました!」
弓山の興奮した声が響いた。
「弓山、もっと声のトーンを下げて。寝不足の頭にその声はきつい」
「あ、すみません!」弓山が少し声を落とした。
「新宿の現場近くのコンビニのカメラです。映ってます、あの生物と、黒装束の人物が!」
真秀は唇を噛んだ。
証拠が、揃い始めている。
「すぐに戻る。映像を保全しろ」
真秀は現場を後にした。
「現場は任せます。私は本部に戻る」
「おう、気をつけてな、嬢ちゃん」
沖田が頷いた。
真秀は現場を後にした。
路地を抜けると、東京の雑踏が広がっている。いつもと変わらぬ日常。
だがその裏側で、何かが動き始めている。
真秀は空を見上げた。灰色の雲が、都心を覆っていた。
嵐の前触れのような、重苦しい空だった。




