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第一章:夜明けの死体

スマートフォンの振動が、真田真秀を浅い眠りから引き戻した。


警視庁本部の仮眠室。固い簡易ベッドの上で、真秀は目を開けた。カシオの時計を見る。午前四時三十七分。眠りについてから、まだ二時間も経っていない。


「真田です」


掠れた声で応答すると、当直の声が緊張を帯びて響いた。


「係長、港区で遺体です。第一発見者は早朝ジョギング中の会社員。状況が……少し、異常です」


真秀は上半身を起こし、肩まで伸びた黒髪を手で払った。鏡越しに見える自分の顔は、疲労で目の下に隈ができている。細身の体に似合わぬ重責を背負って三年。強行犯捜査第三係の係長として、異常な殺人現場など数え切れないほど見てきた。だが当直のこの口調は、ただ事ではない。


「分かった。十五分で現場に向かう」


電話を切り、真秀は立ち上がった。明らかに自分の体が重いのが分かる。ここ一週間、暴力団の抗争事件で本部に泊まり込みが続いていた。ようやく一段落ついたと思った矢先に、これだ。


紺のスーツに袖を通し、肩章をつける。拳銃を確認し、警察手帳をポケットに入れた。準備を終えて廊下に出ると、すでに部下の刑事二名が待機していた。


花山七之助と夢見桜花。どちらも真秀より五つほど若い。


「係長、車を回してあります」


花山が姿勢を正して報告する。生真面目な性格が、こんな時間でもきっちりとしたスーツ姿に表れている。


「またほとんど寝てないんじゃないっすか、係長。身体壊しますよ」


夢見が軽い口調で言った。こちらは対照的に、ネクタイが少し緩んでいる。


「お前たちも一緒だろう。行くぞ」


真秀は二人を促した。花山は即座に先導し、夢見は「はいはい」と肩をすくめながらついてきた。


現場は港区の高級住宅街の一角、公園に隣接した路地だった。


パトカーの赤色灯が夜明け前の闇を切り裂いている。規制線が張られ、制服警官たちが野次馬を遠ざけていた。真秀が車を降りると、現場を仕切る初老の警部補が駆け寄ってきた。


「おう、嬢ちゃん。こんな時間にご苦労さん」


通称・沖さん。本名は沖田剛三。定年まであと三年というベテランだ。白髪交じりの短髪に、日焼けした精悍な顔。真秀が係長に就任した時から、現場では頼りになる存在だった。


「もう、沖さん、『嬢ちゃん』は止めてくださいって何度も言ってるでしょう」


「おう、悪い悪い。真田係長、こちらです」


口では謝りながらも、沖田の表情には相変わらず親しみが滲んでいる。真秀は小さく溜息をついた。昭和の価値観を引きずるこの男の女性の扱いには、正直辟易することもある。だが、その能力と経験は信頼に値する。


案内されて規制線をくぐる。花山と夢見も後に続いた。路地の奥、街灯の明かりが届かない暗がりに、白いシートが被せられていた。その周囲には、すでに鑑識課員たちが慎重に作業を進めている。


「被害者は?」


「身元は確認できています。衆議院議員・北条誠一郎氏の長男、北条隆史、二十六歳です」


真秀は足を止めた。北条誠一郎。与党の有力議員で、次期大臣候補とも目される人物だ。その息子が殺された。


「マスコミは?」


沖田が近くにいた若手刑事に尋ねた。


「まだです。ですが時間の問題かと」


若手刑事が答え、沖田が渋い顔をした。


「分かった。現場を見せて」


真秀の言葉に、沖田が渋い顔をしたまま答えた。


「おう。だが、覚悟しといた方がいい。俺も三十年やってるが、こんなのは初めてだ」


鑑識課員に断りを入れ、真秀はシートに近づいた。ゴム手袋をはめ、シートの端をゆっくりと持ち上げる。


そして、息を呑んだ。


遺体は路地の壁に寄りかかるように倒れていた。いや、倒れているというより、まるで投げ捨てられたように。高級ブランドのスーツは血に染まり、原型を留めていない。


だが真秀の視線を釘付けにしたのは、その損壊の度合いだった。


胸部が大きく裂かれている。肋骨が露出し、その奥には空洞があった。心臓が、ない。頭部も同様だ。頭蓋骨の一部が陥没し、脳組織が失われている。


しかし奇妙なのは、それ以外の部分だった。手足は激しく引き裂かれ、まるで巨大な力で捻じ曲げられたかのように不自然な角度に曲がっている。顔面は原型を留めず、何か鋭利なもので繰り返し傷つけられた痕跡があった。


これを人がやったというのか?真秀には悪魔の所業としか思えなかった。


後方で、夢見が「うっ」と小さく呻いた。花山は顔を青くしながらも、じっと遺体を見つめている。


「検視の見解は?」


真秀の声は、自分でも驚くほど平静だった。五年前、警察学校の同期だった恋人を殉職で失って以来、真秀は感情を表に出さないよう訓練してきた。それが、この仕事を続ける唯一の方法だった。


沖田が手元の資料に目を落とす。


「まだ暫定だが、死亡推定時刻は昨夜十一時から午前二時の間。死因は失血死と思われるが……」彼は言葉を濁した。「検視官も首を傾げている。この損壊状況、凶器の特定が困難だと」


真秀は遺体の周囲に目を向けた。地面には大量の血痕。しかし不自然なほど、散乱物がない。争った形跡も、引きずられた痕跡も見当たらない。


「周辺の防犯カメラは?」


真秀の質問に現場の捜査員が答える。


「確認中です。ただ、この路地は死角になっているようで……」


真秀は立ち上がり、周囲を見渡した。高級住宅街の静寂。誰もが眠っている時間帯。計画的な犯行か。それとも、偶発的な出会い頭の殺人か。


「北条議員には連絡が?」


「はい。現在、こちらに向かっているとのことです」


真秀は頷いた。政治家の息子。マスコミは間違いなく殺到する。そして、上層部からの圧力も始まるだろう。


だが今は、それを考えている場合ではない。


真秀は再び遺体に視線を戻した。この異常な損壊。心臓と脳の欠損。何のために。猟奇殺人か。それとも――


「係長」


鑑識課員の一人が声をかけてきた。健康堂山美。大柄で太った体格だが、その技術は警視庁でも一、二を争う。真秀も過去の事件で、何度もこの男の鑑識結果に助けられてきた。


「何か、健康堂さん?」


「妙なんです」健康堂は額の汗を拭いながら眉をひそめた。「この傷痕、動物に襲われたような痕跡に見えるんですが……噛み痕のようなものもある。しかし、こんな都心で、こんな大型の動物がいるとは」


真秀は再び遺体に目を向けた。言われてみれば、確かに。引き裂かれた傷口の縁は不規則で、まるで牙で噛み千切られたかのようだ。


「動物園や研究施設から、猛獣の脱走報告は?」


「確認しましたが、今の所無いようです。」


真秀は唇を噛んだ。動物による襲撃。しかし、心臓と脳を持ち去るような動物がいるだろうか。それとも、犯人が動物を使った凶行なのか。


「引き続き、周辺の聞き込みと防犯カメラの洗い出しを。それから――」


真秀の言葉が、携帯電話の着信音で遮られた。画面を見ると、本部からだ。


「真田です」


「係長、被害者の身元が確定した件で、刑事部長がすぐ本部に戻るよう指示しています」


真秀は現場を見渡した。まだ何も掴めていない。だが、政治的な配慮が優先される。それがこの国の警察組織だ。


「分かった。現場は沖さんに任せます。」


「おう、任せとけ」


沖田が力強く頷いた。


「花山、夢見、お前たちは引き続き現場で沖さんをサポートしろ」


「了解です!」


花山が敬礼する。夢見は「係長だけ帰るんすか?」と不満そうだったが、真秀の視線に気圧されて黙り込んだ。


電話を切り、真秀は深く息を吐いた。


夜明けが近づいている。東の空が、わずかに白み始めていた。そして真秀の中に、言いようのない不安が芽生え始めていた。


これは、ただの猟奇殺人ではない。


何か、もっと大きな、もっと恐ろしい何かの始まりなのではないか――


その予感は、やがて現実のものとなる。

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