14
真っ赤な夕日に、湖は照り映えていた。
馬車は小さく振動を繰り返しながら、美しい湖畔沿いを走って行く。
「……ねぇ、ヴィルマー」
窓の外を少し眩しそうにしながら眺めていたベティーナが静かに声をかけてきた。どこかしんみりとした声音だった。
「わたくし少し、エミリアが羨ましくなってしまったわ」
「なんだ? 急に」
「だって、羨ましいじゃない。あんなにまっすぐ『居て欲しい』なんて言えるのよ。――……羨ましいじゃない」
後半は、もう、消え入るような声音だった。
ベティーナは目を合わせることを嫌がるように、窓の外をじっと見続ける。
居て欲しい。
ベティーナがそれを言いたい相手は誰なのだろうか。考えようとして、やめた。どんな結論が出ても虚しさしか残らない気がしたからだ。
「……そうだな。それを言うなら、俺はフリッツが羨ましいな」
「そうなの? どの辺が?」
ベティーナは振り返って意外そうにヴィルマーを見た。
ヴィルマーは敢えてまっすぐ彼女を見つめながら、言った。
「そばに居てもいいか――なんて、俺にはとても訊けない」
ベティーナは驚いたように目を見開く。その頬は夕焼けに照らされ赤く染まっていた。
「ヴィルマー、あなた……」
じっとヴィルマーを見つめたベティーナは、たっぷり間を置いて口を開く。そして。
「――意外と奥手なのね……」
残念なものを見る目でそう言った。
なんとなくその反応は予想していたが、力が抜ける。
自分に向けられた言葉だとは露ほども考えていないベティーナは、頬に手を添えてぶつぶつと呟く。
「いえ、そうよね。よく考えればそうでもなきゃ、未だ恋人も婚約者もいないなんておかしいものね……。大丈夫よ、ヴィルマー。あなた、顔はいいから」
同情的な視線には、さすがに苛つきそうになった。少しトゲのある声音でヴィルマーは返す。
「恋人婚約者云々は、姫にだけは言われたくない」
もちろん、二重の意味で、だ。
「あら、わたくしとヴィルマーは違うじゃない。恋愛だって、結婚だって、あなたの方がずっと自由があるんだから」
「自由なんてあるかよ」
そんなものがあるのだったら、とっくに言っている。
時間が許す限り、望まれる限り、突き放されない限り、ただそばにいるだけの関係で居続けるわけがない。
ベティーナが言った通り、彼女とヴィルマーとでは違う。身分が、背負うものが、全く違う。
一見対等に見えようが、どれだけ近しい距離にいようが、歴然とした壁はそこにある。だから、絶対にヴィルマーから望むことは許されない。その線引きが狂ってしまえばきっと、ただそばにいることさえできなくなる。
「え、何。ちょっと、本気で不機嫌にならないでよ」
「なってない」
「分かったわ。わたくしが悪かったわ。謝るからどうか機嫌を直してちょうだい。あなたに不機嫌になられると、どうしていいか分からなくて……困るのよ」
言葉の通り、ベティーナは本当に困っている様子で、眉を下げておろおろとしていた。
ベティーナが不機嫌さを露わにすることは多々あれど、ヴィルマーがそうなることは滅多にない。だからこそ対処の仕方が分からず焦るのだろう。
ベティーナの困る姿を見て溜飲が下がったヴィルマーは、冗談めかして小さく笑う。
「そこまで焦ることか?」
それを見て、ベティーナは安心したようにほっと息を吐き出した。
「はあ、当然よ。あなたの機嫌の取り方なんて知らないもの」
ベティーナは力が抜けたようにクッションにもたれかかる。
それは単に今日一日の疲れがあったからかもしれないが、絶対に外では見せない彼女の態度にヴィルマーは優越感を覚えた。
「弱気な姫は久しぶりに見たな」
「たまには、いいでしょう」
ベティーナは唇を少し尖らせて、拗ねたように言う。
「――そばに居て。なんてことは言わないから、少し弱みを見せるぐらいは……いいでしょう?」
不意の一言に、ヴィルマーは上手く言葉を返せなかった。
――このお姫様はこういうところが厄介だ。
はっきり望むことはしないくせに、遠回しに望みを口にすることはするのだから。
*
翌日も、眩しい日差しが湖を照らしていた。
昨日同様、ベティーナの早朝ジョギングに付き合ったヴィルマーは汗をかいたついでに、剣を振るっていた。
騎士はもうやめたが、身体が鈍らないように剣の稽古は定期的に続けている。
「……姫、暇じゃないか?」
ヴィルマーが剣を振るうのを、ベティーナはわざわざ椅子を用意させてじっと見ていた。視線は苦にならないが、見ているだけで退屈じゃないかと、集中が途切れたヴィルマーは問いかける。
「暇ではないわ。ヴィルマーは綺麗に剣を振るうもの。剣舞を見ているようで、悪くないわ」
「へぇ、そうか?」
「ええ。ラインハルトの剣も見たことがあるけれど、兄弟でもやっぱり違うわね」
ラインハルトとは、ヴィルマーの二番目の兄だ。六つ年が離れていて、第一王子アルスの側近を務める実力者だった。
ヴィルマーはラインハルトの名前に露骨に顔を歪める。
「そりゃ、ハルト兄上とはな。そもそも剣の大きさから違うだろう」
「ラインハルトは大剣使いだものね。でもわたくしが見たのは、お兄様と手合わせしている時だったから、訓練用の木剣だったわよ」
「……ああそう。ハルト兄上は負けてたか?」
「いいえ、圧勝よ。お兄様は強いけれど、だからこそ自分よりも弱い者をそばに置くわけないじゃない」
「だろうな」
呆れまじりの苦笑をこぼす。
仕える主だからと言って、手加減をしたり、わざと負けを選ぶような兄ではない。アルス王子も、そんな臣は望んでいないのかもしれない。
「にしても、ヴィルマーはいつまでラインハルトを避けるつもりなの? いい加減仲直りしたらどう?」
「いや……避けているというか、会ってないだけだ」
「意図的にでしょう。それを避けてるって言うんじゃないのかしら」
もっともだ。
三年ほど前、騎士団を退団した頃から、ヴィルマーは意図的にラインハルトと顔を合わせないようにしていた。
次兄ラインハルトは、ヴィルマーが騎士団で活躍することを期待していた。けれどヴィルマーはそんな兄に何も言わず、騎士団を辞めてしまった。それでなんとなく気まずくて、結果的に避ける形になっていた。ただ、それとは別に、純粋にあの兄と話すのが面倒だという理由もある。
「そろそろ会って話すぐらいはしてあげなさいよ。ラインハルトったら、わたくしの顔を見る度にヴィルマーのことを聞いてくるのよ」
「……は? 何やってるんだ、ハルト兄上」
「本当にね。わたくしへの挨拶より先に、ヴィルマーの姿を探すのよ? ブラコンにもほどがあるわよ」
「兄上…………!」
身内の恥に頭を抱えたくなった。
ハルデンベルク公爵家の末っ子であるヴィルマーは、二人いる兄と少々年が離れている。それ故か、昔から兄たちはヴィルマーを可愛がり、構い倒してきた。
特にラインハルトは、それが顕著だ。幼い頃はどこに行くにも連れ回されたものだ。ベティーナと出会ったのも、ラインハルトが無理を言ってヴィルマーを王城に連れてきたがためだった。
「……そのうちに話すことにする」
未だ気まずい思いはあるものの、ベティーナに迷惑をかけていると知って、放置しておくこともできない。ヴィルマーは苦虫を噛みつぶしながら、そう言った。




