49 幻影
息苦しさで目覚めた。雪だ。いつの間にか眠って、生き埋めになりかけていた。
周囲に生きものの気配がある。顔をぬぐった手を止め、目だけであたりを伺う。
エゾシカがいる。
私の頭から一メートルも離れていないブナの根元に鼻をつっこみ、樹皮か、木の実か、雪に埋もれた何かを漁っている。手をのばせばとどきそうな距離だ。
異常なことだった。
私を死体だと思っているのだろうか。何を食べているのか、エゾシカの口は絶え間なく動いている。鼻先からは白い呼気が漏れ、雪が顔の上に積もろうとするたび長いまつげが瞬きをする。
長い冬毛を垂らした立派な個体だった。その顔が振り返り、静かな目で私を見る。
「おまえは何だ。なぜ逃げない」
おまえは何だ。なぜ逃げない。
鹿が答えたのか、私のせりふがただ跳ね返ってきたのか。
「私は……なんだろう」
この鹿にとって、私は何者だろう。私が人間の女で彫刻家のつもりの木彫り職人で、レズだったかもしれない行方不明の少女のことをいつまでも探しているなんて、こいつには何のかかわりもないことだろう。この鹿も私にとってはただの見知らぬ生き物でしかない。
肉の奥深く、まだ脈打つ心臓があるというだけの、それが止まれば等しくただのモノになりはてる、何の違いも無い同じ生命。私とおまえを隔てるものは何だ。私が人でおまえがシカなら、おまえがヒトで私が鹿であっても、おまえが胡桃で私がケヤキであってもいいはずだ。
鹿はもしゃもしゃと何かかを咀嚼しながら、静かに私を見つめている。人間以上の奥深い知性があるようにも、ただの濡れたガラス玉のようにも見える瞳だった。覗き込むとその奥には雪をかぶった私の姿があり、その私の瞳にはエゾシカの顔が映っている。
「おまえは、何者だ」同じ問いに、その顔が答えた気がした。
「カムイモシリよりユクの身を借りて天下った、死と目覚めを司る
カムイだ――そうとでも言えば満足か。私はあなただ。あなたは私だ。他の者はないのだ」
夢だったのだろう。気がついたときには私はまた雪に埋もれていて、エゾシカの姿も足跡も見えなくなっていた。
口元の雪を払おうとして、左手が動かなくなっていることに気づく。
さすがに、限界か。
だがそう思ったとき、やさしい風が吹きつけてきて息苦しさが消えた。誰かの冷たい手が、そっと顔をぬぐってくれたみたいだった。
かすんでいた視界が急に澄み渡った。青白い光に包まれた顔が何も言わずに私を見下ろしている。
「くるみ」
そんなはずはないとわかっているのに、私はその顔にむかって手をのばす。だがさしのべたはずの腕は見えず、重ささえ感じられず、動かない頭部、視線だけを横に倒せば、右手は相変わらずモービルの下敷きのままだ。
ささやきのような、地吹雪の始まりの音。
白いドレスのすそが揺らめくように、地を這う風にあおられて新雪が宙に舞い上がる。
ふわりと、私自身も浮かび上がる。
そんな錯覚。
私の体はスノーモービルの下敷きになって、筋肉も骨もひしゃげて断ち切られて流血もやまず、末端の細胞は次々に壊死していって感覚を失っている。私がまだ在ると感じさせているのは、途切れ途切れの意識、肺の呼吸、脈打つ心臓の鼓動。中心でゆらめく炎の感覚だ。周縁は不確定で、境界は不可知。それはたぶん、ヨハンセンが森でつかんだ命の本質。
私から発したそれは今、とめどなく流失し、空気に溶け、雪と同化し、餌をあさるシカや冬の眠りの中にいるエゾリスや、音もなく木の下闇をよぎるシマフクロウを見下ろしながら、空へと、雲の覆いに閉ざされた対流圏を超え、成層圏へと、あるはずのない右手を翼ある誰かに引かれるように、高く、より高くへと導かれていく。
天上へと近づくにつれ、聞こえてくるのはタンチョウの鳴く声、踏み鳴らす足音、手拍子、囃し声。アイヌの娘たちの舞う鶴の舞。
とぅるるるるるー。
とぅるるるるるるるー。
天上と地上を舞の輪がひとつにつなぐ。光に照らされた場所と影の世界を。目に見えるものも見えないものも、同じひとつの輪をつくって、アイヌモシリからカムイモシリへとのぼり、また大地へと帰っていく。私も同じ、その踊りの輪に運ばれて、あの懐かしい、光る顔のそばへと。
もちろんそれは誰の顔でもない。私は最初から月を見ていたにすぎない。くるみはいない。
だが私はもう気づいている。此処にいることと何処かにいることは同じことだ。今ここにいることと、かつてここにいたこと、いつかここに現れることも同じことだ。私がくるみを、くるみが私を愛していた、その確かささえ信じられるなら、すべてはすでに成就されていて、失われたものなど何一つないのだ。すべては今・此処にあって、すべての答えを私は知っている。そうだ。未完成だったあのエスキース、あのカタチにたどりついた私の直感も、きっと正しかった。目に見えるもの、形あるものですべてを表すことはできないのだ。目に見えるものだけを描こうとすれば、それは必ず半分だけの、言葉足らずの造形になる。
思い出した。
あのとき、エカシはこうも言っていたのだ。「ワシも昔、鶴の舞を彫ろうとしたことがある。舞う姿を描くのはたやすいが、舞そのものを表すにはどうすればいいのだろう。今でもわからんのだよ」
そうだ、あのときエカシは、見事に本質を言い当てていたのだ。
舞だ。
すべてはダンスだ。
描くべきものの姿が、はっきりと見えた。




