50 旅立ち
さて、結論から言ってしまえば、結局私は死ななかった。
今こうして山中の体験を過去の出来事としてつづっていられるのは、あの日の朝に出会ったスノボ娘のおかげである。
彼女が下山し私と連絡をとろうとしたとき、私は圏外にいる、と彼女の携帯には表示された。ペンケトー・パンケトー地域は普段から電波の届きにくいところで、それは直ちに事故を意味するわけではなかったが、彼女はそのタイミングでコタンの人々に注意を呼びかけていた。その日、午後九時過ぎ、摩周での用事を済まして帰ってくるところだった一人の住民が、ヘッドライトとおぼしき灯りが山中で点り続けていることに気づいた。二四一号線からわずか八十メートル北に入った地点だった。彼は状況を見て取ると、苦もなくモービルを突き転がし、雪に埋もれていた私をあっさりと掘り出した。
救出されたとき私は彼に、「ああ、大丈夫っすよ、どうもすいません」と、非常にはっきりした声で答えたそうだが、まったく覚えがない。記憶しているのは、周囲が急に騒がしくなったことと、車に乗せられ、ずいぶん長い時間運ばれたことだけだ。いつのまにか眠りに落ち、目覚めたときには手術がちょうど終わったところだった。肘の先七センチのところで切断された右腕に仮義手を装着されて、義手の扱いの注意やこれからのリハビリの予定について、理学療法士だか技肢装具士だかが説明しているのを、麻酔の抜けきらない頭でぼんやりと聞いていた。
それからリハビリが済むまでの間に、これといって書くべき出来事はない。障害を負った者が誰しも経験するようなことが私にもあったというにすぎない。
ともかくもそういうわけで、私の職人としてのキャリアは終わった。コタンに残ることはできただろう。店番でも荷物運びでも何でもいい。義手と左手でも、私にできる仕事はあったはずだ。だが、エカシは言ったのだ。
「家族のところにもどってやれ」と。
エカシの口から出たことを思えば、その言葉は重い。
私にとってはエカシだって家族同然だったし、いなくなった人たちの思い出ばかりのあの家に、エカシ独りを残していくのは耐え難いものがあった。誰かがそばにいてやらなければ、エカシ自身も思い出の一部となって溶けて消えてしまいそうな気がした。だが。エカシは買ってきたばかりのPS3を開封しながらこう言ったのだ。
わしはおまえが思うほど孤独でも感傷的でもないぞ、と。
実際そのとおりなのだろう。結局、孤独で感傷的なのはいつも私のほうなのだ。
私はふるさとに帰ることになった。事故の報を聞くとすぐに札幌から飛んできて、退院までずっと釧路に滞在していた母に付き添われて。
気がつけば、ビッキの『四つの風』の前で未明と別れたあの日から八年が過ぎ去っていた。生まれ育った町に帰り、札幌の病院で義肢訓練を終わらせた。そして私は、薄々気づいていたある事実に、いやいやながら向き合うことになった。
『銅版画の難しさは、まさにある種の手の持ち主でなければそれを行うことができないということからきている。版画を学びたいという若者が来ると、挨拶のために握手をかねて手を握ってみる。だが、しばしばその動作は、もう来なくていいという意味、版画との別れの挨拶になるわけだ』
これはジョアン・ミロの言葉だ。
私は生まれ持った右手を十五年かけて育て上げてきた。私の仕事に必要なだけの強さと繊細さは左手には到底なかったし、どんな義手にも再現不可能なものだった。
生きることは変化することだ。
木を彫るだけが立体造形ではないし、立体造形だけがアートではない。そのとおりだ。
だが、私が作らねばならない作品は、そうだ、あの極寒の中で右手と引き換えにビジョンを得たあの作品だけは、木彫で、私自身の手によって彫らねばならなかったのだ。
絵に描いても、金属を使っても、ほかの誰かに彫ってもらっても、私が求めた生命感は現れなかった。存在と非在のダンスは私の頭の中だけのもので、今となっては、本当に表現可能なものかどうかさえ怪しく感じられた。
あるいはあの雪の山中で、私はミロと握手をしたのかもしれない。あきらめて、もう帰るようにと。
もちろん、片手を失うことは人生の終わりではない。着替えも料理も裁縫も、車の運転も大工仕事も、絵を描くことだってできるのだ。それは訓練と工夫とやる気しだいだ。今は筋電義手なんて優れたものもある。だがそれでも、かなわないものがあるのだ。
そう、問題は、失った右手の大きさではなく、残された私の小ささだった。
春も夏も過ぎ去っていた。
ヒマワリはまだ咲き残っていたが、そのかたわらでアジサイはミイラのように干からび、街路樹の葉はもう色を変えはじめていた。青空に熱気はなく、太陽の光にも眩しさはなかった。他人の写真を眺めているような温度のない、ただ明るいだけの空だった。
了
便宜上、一端ここで切ります。長いエピローグとなる、その後の札幌での出来事は「私のカタチ3」 http://ncode.syosetu.com/n6146cv/でお送りします。ここまでおつきあい下さった皆様、ありがとうございました。




