26 何をしてるんだ、おまえは
九月、最後の週。
東北に大雨をもたらすはずだった台風が、エネルギーを保持したまま太平洋を北上中、だなんてニュースをラジオで聞きながら、昼間から部屋の荷物をまとめていたところだった。
晴原先輩から電話が来た。成田からだという。
「何をしてるんだ、おまえは」
いきなりそんなことを言われる。
「まだ、なんとか番外地か」
「いえ、もうすぐ引き払います。次は決まってませんが、しばらくは札幌にいると思います」
「そうか、まあ、そのほうがいいだろうな」晴原先輩は言う。
「自分が何者かもわからんやつが、そんな山奥に引きこもっててもプラスにはならねえよ。おまえにはまだいろんな刺激が必要だ。馬鹿にされたりとか嘲われたりとか無視されたりとか、悩んで考えて、っていうのがまだまだ必要な段階だ。違うか」
「……違いません」
見てもいないくせに、この人は私のことをよくわかっている。
ひょっとして好きなんじゃないかと思うくらい、よく考えてくれている。ありがたいと思うべきなのだろう。言葉を選ぶとかオブラートに包むとかいった配慮を一切しないというのはきっと些細な問題にすぎない。
「ああそうだ、ヨハンセンが心配してたぞ」
「ハイ?」
不覚にも声が裏返った。
「手紙書いても返事が来ないっ、てよ。心配つか寂しがってたな。まあ、入院するのは初めてじゃないが、一言あってもいいだろう。てか、そもそもおまえ、俺からの手紙だって読んでないだろう。今日帰国することだって、だいぶまえに連絡してんだぞ」
初耳だった。私宛の郵便物など役所と実家からのもの以外見ていない。言われてみれば配達員がいつ来ているのかすら私は知らない。
平謝りに謝り、しどろもどろになりながら電話を切った。
エカシが珍しく仕事をしていた。
私が昨日荒彫りを済ませたエンジュの熊に、異様な速度で毛彫りを施していく。普通の手順ではなかった。じかに見ていても、何かのトリックのようにしか思えない。しばらく黙って見ていた。手が止まるのを待って声をかけた。
ゆうびん?
汗をぬぐいながら、まるで知らない言葉を聞いたみたいに首をかしげた。
「郵便屋が来るのは、だいたい昼間の、ああそう、今くらいの時間だ。普段は、くるみが受け取っているのではないかな」
話している間にエンジン音が聞こえてきた。窓を見ると、〒マークの赤い四駆が坂を登ってくる。
表玄関に回って靴をとって裏口から外に出てみたら、どこから現れたのかくるみが郵便物を受け取っているところだった。昼休憩で戻ってきていたのかもしれない。郵便配達の車はすでに走り出している。しかたがないからくるみに話を聞こうと裏口で待っていたら、こちらには帰ってこずに倉庫のほうに歩き出した。
母屋の地下にある仕事用のではなく車庫を兼ねた別棟で、そういえば鍵がどこにあるのかさえ私は知らなかった。
後を追って中に入りかけて、思わず足が止まった。入ってすぐは車庫だったが、その奥には思いがけないものが詰まっていた。子供用の学習机、かわいらしいシールが下のほうにばかり貼り散らされた箪笥、サイズの小さなグローブやバットが放り込まれたバスケット、三輪車、補助輪つきの自転車、小型除雪車とスノーモービルの後ろに、そんなものがひしめいていた。何もかもが華やいだクリーム色やピンク色で、でもそれは遥か昔のことで、今は色褪せひび割れた塗装の名残が蜘蛛の巣と埃の下に埋もれているだけだ。
踏み入ってはならない秘密の歴史を見てしまったようで、私は動けなくなった。
くるみは斜光さす過去の中を歩き回っている。箪笥のひきだしの中から四角い缶を取り出すと、郵便物のうちのいくつかをより分けて、中にしまった。
私は声をかけなかった。くるみは缶を箪笥にもどし、出口へと歩き出そうとして私に気づいた。彼女の瞳に映ったかすかな驚き、それが拭い去ったように消えて、見覚えのある真っ暗な無表情に変わる。
そのまま口元だけがスッと笑った。
「どうしたの、こんなところに」
その顔のまま近づいてくる。背伸びをして、私の肩にぶらさがるようにして、耳元でささやく。
「そんなに私に会いたかった? 夜まで待てなかったの?」
もちろんそれは彼女なりのジョークなのだが、このときは相手をする気になれなかった。
くるみはほんの少し身体を離し、少し首をかしげて私を見た。離れた、と言っても顔と顔の間は五センチほどだ。彼女の瞳しか見えない距離。
そこには何もない。私の反応を探っている気配さえない。ただ、うろたえている私の顔を、死んだ水面のように映しているだけだ。
シャッターを閉ざした状態のくるみの瞳の、見事なまでの空ろさに、私はますます言葉を失ってしまって、仕方なく無言でその身体をおしのけた。
倉庫の奥に踏み込み箪笥を開け、缶を取り出す。
未明からの手紙があった。未明と奥さんと、生まれたばかりの子供三人の、家族写真が同封されていた。
ヨハンセンからの長文のエアメール。世界各地からの絵葉書は晴先輩からのものだ。おまえも世界に飛び出して来い、そう呼びかけているようだ。どれもこれも、私宛のものばかり。
振り返るとくるみはいなかった。
後姿も足跡も残さずに、くるみは消えていた。




